俺は怖くて怖くて布団に潜り続けていた。
両親が来て、電気を点けて布団を剥いだとき、
丸まって身体が固まった俺がいたそうだ。
林は両親に見向きもせず車に乗り込み、
待っていた菊地、菊地の友達と供に何処かへ消えていった。
後から菊地に聞いた話では、「車を出せ」以外は言わなかったらしい。
解決するどころか、ますます悪いことになってしまった俺には、
三週間先の篠塚先生を待っている余裕など残っていなかった。
アイツを再び目にしてから、さらに四日が経った。
当たり前かも知れないが、首は随分良くなり、
まだ痕が残るとは言え、明らかに体力は回復していた。
熱も下がり、身体はもう問題が無かった。
ただ、それは身体的な話でしかなくて、
朝だろうが夜だろうが関係無く怯えていた。
何時どこでアイツが姿を現すかと思うと、怖くて仕方無かった。
眠れない夜が続き、食事もほとんど受け付けられず、
常に辺りの気配を気にしていた。
たった十日足らずで、俺の顔は随分変わったと思う。
精神的に追い詰められていた俺には、時間が無かった。
当然、まともな社会生活なんて送れる訳も無く、
親から連絡を入れてもらい会社を辞めた。
これも後から聞いた話でしかないのだが……、
連絡を入れた時は随分嫌味を言われたらしい。
とにかく何もかもが怖くて、洗濯物や家の窓から見える柿の木が揺れただけでも、
もしかしたらアイツじゃないかと一人怯えていた。
篠塚先生が来るまでには、まだ二週間あまりが残っていた。
俺には長すぎた。
見かねた両親は、強引に怯える俺を車に押し込み、何処かへ向かった。
父が何度も「心配するな」「大丈夫だ」と声をかけた。
車の後部座席で、母は俺の肩を抱き頭を撫でていた。
母に頭を撫でられるなんて何年ぶりだったろう。
時間の感覚も無く車で移動しながら夜を迎えた。
二十歳も過ぎて恥ずかしい話だが、
母に寄り添われ安心したのか、久方ぶりに深い眠りに落ちた。
目が覚めるとすでに陽は登っていて、久しぶりに眠れてすっきりした。
実際には丸一日半眠っていたらしい。
多分、あんなに長く眠るなんてもうないだろうな。
外を見ると、車は見慣れない景色の中を進んでいた。
少しずつ、見覚えのある景色が目に入り始めた。
道路の中央に電車が走っている。
車は長崎に着いていた。これには俺も流石に驚いた。
怯え続ける俺を気遣い、飛行機や新幹線は避け車での移動にしてくれたらしい。
途中で休憩は何度も入れたらしいが、それでもろくに眠らず車を走らせ続けた父と、
俺が怖がらないようにずっと寄り添ってくれた母への恩は、
一生かけても返しきれそうもない。
祖父母の住む所は、長崎の柳川という。
柳川に着くと坂道の下に車を停め、両親が祖父母を呼びに行った。
祖父母の家は、坂道から脇に入った石段を登った先にある。
その間、俺は車の中に一人きりの状態になった。
両親が二人で出ていったのは、足腰の悪い祖母や、
篠塚先生の家に持っていく荷物を運ぶのを手伝うためだったのだが、
自分で「大丈夫、行って来て」なんて言ったのは、本当に舐めてた証拠だと思う。
久しぶりに眠れた事や、今いる場所が東京・埼玉と随分離れた長崎だった事が、
気を弛めたのかもしれない。
車の後部座席に足をまるめて座り、外をぼーっと眺めていると、急に首に痛みが走った。
今までの痛みと比較にならないほど、言い過ぎかも知れないが激痛が走った。
首に手をやると滑りがあった。
……血が出てた。
指先に付いた血が、否応なしに俺を現実に引き戻した。
この時、怖いとか、アイツが近くにいるかもって考える前に、
「またかよ……」ってなげやりな気持ちが先に来たな。
もう何か嫌になって泣けてきた。
分かってもらえれば嬉しいけど、嫌な事が少しの間をおいて続けて起きるのって、
もうどうしようも無いくらい落ち込むんだよね。
気持ちの整理が着き始めると嫌な事が起きるっては辛いよね。
この時は少し気が弛んでいたから尚更で、
「どーしろっつーんだよ!!」とか、
「いい加減にしてくれよ」とか独り言をぶつぶつ言いながら泣いてた。
車に両親が祖父母を連れて戻って来たんだけど、すぐにパニックになった。
何しろ問題の俺が、首から血を流しながら、後部座席で項垂れて泣いてるからね。
何も無い訳がないよな。
「どうした?」とか、「何とか言え!」とか、
「もぅやだー」とか、「義満ちゃん、しっかりせんか!!」とか、
「どげんしたと!?」とか、「あなたどうしよう」とか。
この時は思わず、「てめぇらぅるっせーんだよ!!」って怒鳴ってしまった。
こんな時に説明なんか出来るわけねーだろって、
てめぇらじゃ何も出来ねぇ癖に……黙ってろよ!とか思ってたな。
勝手に悪い事になって仕事は辞めるわ、
騙されそうになるわ……こんな俺みたいな駄目な奴のために、
走り回ってくれてる人達なのに……
今考えると本当に恥ずかしい。
で、人生で一度きりなんだけどさ、親父がいきなり俺の左頬に平手打ちをしてきた。
物凄い痛かったね。
親父、滅茶苦茶厳しくて何度も口喧嘩はしたけど、
多分生まれてから一回も打たれた事無かったからな。
で、一言だけ「お祖父さんとお祖母さんに謝れ」って、
静かだけど厳しい口調で言ったんだ。
それで、何故か落ち着いた。
ってかびっくりし過ぎて、それまでの絶望感がどっかに行ってしまったよ。
冷静さを取り戻して皆に謝ったら、急に腹が据わってきた気がした。
走り始めた車の中で、励ましてくれる祖父母の言葉に感極まってまた泣いた。
自分で思ってるよか全然心が弱かったんだな、俺は。
……篠塚先生の家(寺でもあるが)に着くと、ふっと軽くなった気がした。
何か起きたっていうよりは、俺が勝手に安心したって方が正しいだろうな。
門をくぐり、石畳が敷かれた細い道を抜けると、初老の男性が迎え入れてくれた。
そう言えば、篠塚先生の家にはいつもお客さんがいたような気がする。
きっと、祖母のように通っている人が多いんだろう。
奥に通され裏手の玄関から入り進んでいくと、十畳くらいの仏間がある。
篠塚先生は俺の記憶の通り、仏像の前に敷かれた座布団の上に正座していて、
ゆっくりと振り向いたんだ。
祖母「義満ちゃん、もうよかけんね。篠塚先生が見てくれなさるけん」
篠塚先生「久しぶりねぇ。随分立派になって。早いわねぇ」
祖母「篠塚先生、義満ちゃんば大丈夫でしょかね?」
祖父「大丈夫って。そげん言うたかてまだ来たばかりやけん、
篠塚先生かてよう分からんてさ」
祖母「あんたさんは黙っときなさんてさ。もうあたし心配で心配で仕方なかってさ」
何でだろう……ただ篠塚先生の前に来ただけなの、
にそれまで慌ていた祖父母が落ち着いていた。
泣きっぱなしだな俺。
篠塚先生はもっと近づくように言い、膝と膝を付け合わせるように座った。
俺の手を取り、暫くは何も言わず優しい顔で俺を見ていた。
俺は何故か、悪さをして怒られるじゃないかと親の顔色を伺っていた、
子供の頃のような気持ちになっていた。
目の前の、敢えて書くが、自分よりも小さくて明らかに力の弱いお婆ちゃんの、
威圧的でもなんでもない雰囲気に呑まれていた。
あんな人本当にいるんだな。
「……どうしようかしらね」
「……」
「義満ちゃん、怖い?」
「……はい」
「そうよねぇ。このままって訳には行かないわよねぇ」
「えっと……」
「あぁ、いいの。こっちの話だから」
何がいいんだ!?
ちっともよかねーだろなんて気持ちが溢れて来て、耐えきれずついにブチ撒けた。
本当に人として未熟だなぁ、俺は。
「あの、俺どーなるんすか?もう早いとこ何とかして欲しいんです。
大体何なんですか?
何でアイツ俺に付きまとうんですか?
もう勘弁してくれって感じですよ。篠塚先生、何とかならないんですか?」
「義満ちゃ……」
「大体、俺別に悪いこと何もしてないっすよ!?
確かに心霊スポッには行ったけど、俺だけじゃないし、
何で俺だけこんな目に会わなきゃいけないんすか?
鏡の前で△しちゃだめだってのも関係あるんですか?
ホント訳わかんねぇ!!あーっ!苛つくぅぁー!!」
「ドォ~ドォルルシッテ」
「ドォ~ドォルル」
「チルシッテ」
……何が何だか解らなかった。
(ホントにワケ解んないので、取り敢えずそのまま書く)
「ドォ~。シッテドォ~シッテ」
左耳にオウムかインコみたいな、甲高くて抑揚の無い声が聞こえてきた。
それが「ドーシテ」と繰り返していると理解するまで少し時間がかかった。
俺は篠塚先生の目を見ていたし、篠塚先生は俺の目を見ていた。
ただ優しかった篠塚先生の顔は、無表情になっているように見えた……
左側の視界には何かいるってのは分かってた。
チラチラと見えちゃうからね。よせば良いのに、左を向いてしまった。
首から生暖かい血が流れてるのを感じながら。
アイツが立ってた。
体をくの字に曲げて、俺の顔を覗き込んでいた。
くどいけど……訳が解らなかった。起きてることを認められなかった。
此処は寺なのに、目の前には篠塚先生がいるのに……何でなんで何で……
一週間前に見たまんまだった。
アイツの顔が目の前にあった。
梟のように小刻みに顔を動かしながら、俺を不思議そうに覗き込んでいた。
「ドォシッテ?ドォシッテ?ドォシッテ?ドォシッテ?」
オウムのような声でずっと質問され続けた。
きっと……林も同じようにこの声を聞いていたんだろう。
俺と同じ言葉を囁かれていたのかは分からないが……
俺は息する事を忘れてしまって、目と口を大きく開いたままだった。
いや、息が上手く出来なかったって方が正しいな。
たまに「コヒュッ」って感じで、息を吸い込む事に失敗してた気がするし。
そうこうしているうちに、アイツが手を動かして、
顔に貼り付けてあるお札みたいなのを、ゆっくりめくり始めたんだ。
見ちゃ駄目だ!!絶対駄目だって分かってるし逃げたかったんだけど、動けないんだよ!!
もう顎の辺りが見えてしまいそうなくらいまで来ていた。
心の中では「ヤメロ!それ以上めくんな!!」って叫んでるのに、
口からは「ァ……ァカハッ……」みたいな情けない息しか出ないんだ。
もうやばい!!ヤバい!ヤバい!ってところで、「パンッ!!」って。
例えとか誇張でもなく“跳び上がった。心臓が破裂するかと思った。
「パン!!」
その音で俺は跳び上がった。
正座してたから、体が倒れそうになりながら後に振り向いて、すぐ走り出した。
何か考えてた訳じゃなく、体が勝手に動いたんだよね。
でも慣れない正座のせいで、足が痺れてまともに走れないのよ。
痺れて足が縺れた事と、あんまりにも前を見てないせいで、
頭から壁に突っ込んだが、ちっとも痛くなかった。
額から血がだらだら出てたのに……、
それだけテンパって周りが見えてなかったって事だな。
血が目に入って何も見えない。手をブン回して出口を探した。
けど、的外れの方ばっかり探してたみたい。
「まだいけません!」
いきなり篠塚先生が大きい声を出した。
障子の向こうにいる両親や祖父母に言ったのか、俺に言ったのか分からなかった。
分からなかったが、その声は俺の動きを止めるには十分だった。
ビクってなってその場で硬直。
またもや頭の中では、物凄い回転で事態を把握しようとしていた。
っつーか把握なんて出来る筈もなく、
篠塚先生の言うことに従っただけなんだけどね。
俺の動きが止まり、
仏間に入ろうとする両親と祖父母の動きが止まった事を確認するかのように、
少しの間を置いてから篠塚先生が話し始めた。
篠塚先生「義満ちゃんごめんなさいね。
怖かったわね。もう大丈夫だからこっちに戻ってらっしゃい」
襖の向こうから、しきりに何か言ってのは聞こえてたけど、覚えてない。
血を拭いながら篠塚先生の前に戻ると、手拭いを貸してくれた。
お香なのかしんないけど、いい匂いがしたな。
ここに来てやっと、あの音は篠塚先生が手を叩いた音だって気付いた。
「義満ちゃん、見えたわね?聞こえた?」
「見えました……どーして?って繰り返してました」
この時にはもう、篠塚先生の顔はいつもの優しい顔になってたんだ。
俺も今度はゆっくりと、出来るだけ落ち着いて答える事だけに集中した。
まぁ……考えるのを諦めたんだけどね。
「そうね。どうして?って聞いてたわね。何だと思った?」
さっぱり分からなかった。考えようなんて思わなかったしね。
「??……いや……、ぅぅん?……分かりません」
「義満ちゃんはさっきの怖い?」
「怖い……です」
「何が怖いの?」
「いや……、だって普通じゃないし。幽霊だし……」
ここらへんで、俺の脳は思考能力の限界を越えてたな。
篠塚先生が何を言いたいのかさっぱりだった。
「でも何もされてないわよねぇ?」
「いや……首から血が出たし、
それに何かお札みたいなの捲ろうとしてたし。
明らかに普通じゃないし……」
「そうよねぇ。でも、それ以外は無いわよねぇ」
「……」
「難しいわねぇ」
「あの、よく分からなくて……すいません」
「いいのよ」
篠塚先生は、俺にも分かるように話してくれた。
諭すっていった方がいいかもしれない。
まず、アイツは幽霊とかお化けって呼ばれるもので間違いない。
じゃあ所謂悪霊ってヤツかって言うと、
そう言いきっていいか篠塚先生には難しいらしかった。
明らかにタチが悪い部類に入るらしいけど、
篠塚先生には悪意は感じられなかったって言っていた。
俺に起きた事は何なのかに対してはこう答えた。
「悪気は無くても強すぎるとこうなっちゃうのよ。あの人ずっと寂しかったのね。
『話したい、触れたい、見て欲しい、気付いて気付いてー』
って、ずっと思ってたのね。
義満ちゃんはね、分からないかもしれないけど、暖かいのよ。
色んな人によく思われてて、
それがきっと『いいな~。優しそうだな~』って思ったのね。
だから、自分に気付いてくれた事が、
嬉しくて仕方なかったんじゃないかしら。
でもね、義満ちゃんはあの人と比べると全然弱いのね。
だから、近くに居るだけでも怖くなっちゃって、体が反応しちゃうのね」
篠塚先生は、まるで子供に話すようにゆっくりと、
難しい言葉を使わないように話してくれた。
俺はどうすればいいのか分からなくなったよ。
アイツは絶対に悪霊とかタチの悪いヤツだと決めつけてたから。
篠塚先生にお祓いしてもらえばそれで終ると思ってたから……
それなのに、篠塚先生がアイツを庇うように話してたから……
「さて、それじゃあ今度は何とかしないといけないわね。
義満ちゃん、時間かかりますけど、何とかしてあげますからね」
この一言には本当に救われたよ。
あぁ、もういいんだ。終るんだって思った。やっと安心したんだ。
篠塚先生に教えられたことを書きます。
俺にとって一生忘れたくない言葉です。
「見た目が怖くても、自分が知らないものでも、
自分と同じように苦しんでると思いなさい。
救いの手を差し伸べてくれるのを待っていると思いなさい」
篠塚先生はお経をあげ始めた。
お祓いのためじゃ無く、アイツが成仏出来るように。
その晩、額は裂けてたし、
よくよく見れば首の痕が大きく破けて痛かったけど、
本当にぐっすり眠れた。
お経終わってもキョドってた俺のために、笑いながらその日は泊めてくれた。
翌日、朝早く起きたつもりが、篠塚先生はすでに朝のお祈りを終らしてた。
「おはよう、義満ちゃん。さ、顔洗って朝御飯食べてらっしゃい。
食べ終わったら本山に向かいますからね」
関係者でも何でもないんで、あまり書くのはどうかと思うが少しだけ。
篠塚先生が属している宗派は、前にも書いた通り教科書に載るくらい歴史があって、
信者の方も修行されてる方も、日本全国にいらっしゃるのね。
教えは一緒なんだけど、地理的な問題から東と西それぞれに本山があるんだって。
俺が連れていってもらったのが西の本山。
本山に暫くお世話になって、自分が元々持っている徳
(未だにどんなものか説明できないけど)
を高める事と、アイツが少しでも早く成仏出来るように、
本山で供養してあげられるためって篠塚先生は言ってた。
その話を聞いて一番喜んだのが祖母。
まだ信じられなそうだったのが親父。
最後は、俺が「もう大丈夫。行ってくる」って言ったから反対しなかったけど。
本山に着くと迎えの若い方が待っていて、篠塚先生に丁寧に挨拶してた。
本堂の横奥にある小屋
(小屋って呼ぶのが憚れるほど広くて立派だったが)
で本山の方々にご挨拶。
ここでも篠塚先生にはかなりの低姿勢だったな。
篠塚先生、実は凄い人らしく、
望めばかなりの地位にいても不思議じゃないんだって後から聞いた。
「寂しいけど序列ができちゃうのね」って篠塚先生は言ってた。
俺は本山に暫く厄介になり、まぁ客人扱いではあったけど、
皆さんと同じような生活をした。
多分、篠塚先生の言葉添えがあったからだろうな。
その中で、自分が本当に幸運なんだなって実感したよ。
もう四十年間ずっと蛇の怨霊に苦しめられている女性や、
家族親族まで祟りで没落してしまって、
身寄りが無くなってしまったけど、
家系を辿れば立派な士族の末裔の人とか……
俺なんかよりよっぽど辛い思いしてる人が、
こんなにいるなんて知らなかったから……
厳しい生活の中にいたからなのか、
場所がそうだからなのか、あるいは篠塚先生の話があったからなのか、
恐怖は大分薄れた。
とは言うものの、ふと瞬間にアイツがそばに来てる気がしてかなり怯えたけど。
本山に預けてもらって一ヶ月経った頃、篠塚先生がいらっしゃった。
「あらあら、随分良くなったみたいね」
「えぇ、篠塚先生のおかげですね」
「あれから見えたりした?」
「いや……一回も。多分成仏したかどっかにいったんじゃないですか?
ここ、本山だし」
「そんな事ないわよ?」
顔がひきつった。
「あら、ごめんなさい。また怖くなっちゃうわよね。
でもね義満ちゃん、ここには沢山の苦しんでる人がいるの。
その人達を少しでも多く助けてあげるのが、私達の仕事なのよ」
多分だけど、篠塚先生の言葉にはアイツも含まれてたんだと思う。
「義満ちゃん、もう少しここにいて勉強しなさい。折角なんだから」
俺は篠塚先生の言葉に従った。
あの時の事がまだまだ尾を引いていて、まだここにいたいって思ってたからね。
それに、一日はあっという間なんだけど……何て言うか、
時間がゆっくり流れてような感じが好きだったな。
そんなこんなが続いて、結局三ヶ月も居座ってしまった。
その間篠塚先生は、こっちには顔を出さなかった。
やっぱり篠塚先生の言葉がないと不安だからね。
でも、哀しいかな、
流石に三ヶ月もそれまで自分がいた騒々しい世界から隔離されると、
物足りない気持ちが強くなってた。
実に二ヶ月ぶりに篠塚先生がやって来て、
やっと本山での生活は終りを迎えようとしていた。
身支度を整え、兎に角お世話になった皆さんに一人ずつ御礼を言い、
篠塚先生と帰ろうとしたんだ。
でも気付くと、横にいたはずの篠塚先生がいない。
あれ?と思って振り向いたら、少し後にいたんだ。
歩くの速すぎたかな?って思って戻ったら、優しい顔で
「義満ちゃん、帰るのやめてここに居たら?」
って言われた。
実は篠塚先生に認められた気がして少し嬉しかった。
「いや、僕にはここの人達みたいには出来ないです。
本当に皆さん凄いと思います。真似出来そうもないですよ」
「そうじゃなくて、帰っちゃ駄目みたいなのよ」
「え?」
「だってまだ残ってるから」
また顔がひきつった。
結局、本山を降りる事が出来たのは、それから二ヶ月後だった。
実に五ヶ月も居座ってしまった。
多分、こんなに長く、家族でも無い誰かに生活の面倒を見てもらう事は、
この先ないだろう。
篠塚先生から、
「多分もう大丈夫だと思うけど、しばらくの間は月に一度おいでなさい」
と言われた。
アイツが消えたのか、それとも隠れてれのか、
本当のところは分からないからだそうだ。
長かった本山の生活も終って、やっと日常に戻って来た。
借りてたアパートは母が退去手続きを済ましてくれていて、
実家には俺の荷物が運び込まれてた。
アパートの部屋を開けた時、何かを燻したような臭いと、
部屋の真ん中辺りの床に小さな虫が集まってたらしい。
怖すぎたらしく、その日はなにもしないで帰って来たんだってさ。
翌日、仕方無いんで、意を決してまた部屋を開けたら、
臭いは残ってたけど虫は消えてたらしい。
母には申し訳ないが、俺が見なくて良かった。
実家に戻り、実に約半年ぶりくらいに携帯を見ると、
物凄い件数の着信とメールがあった。
中でも一番多かったのが菊地。
メールから、
奴は奴なりに自分のせいでこんな事になったって自責の念があったらしく、
謝罪とか、こうすればいいとか、こんな人が見つかったとか、
まめに連絡が入ってた。
母から菊地が家まで来た事も聞いた。
戻って二日目の夜、菊地に電話を入れた。
電話口が騒がしい。
菊地は呂律が回らず何を言っているか分からなかった。
コンパしてやがった。
とりあえず電話をきり、『殺すぞ』とメールを送っておいた。
所詮世の中他人は他人だ。
翌日、菊地から『謝りたいから時間くれないか?』とメールが来た。
電話じゃなかったのは、気まずかったからだろう。
夜になると、家まで菊地が来た。
わざわざ遠いところまで来るくらいだ。
相当後悔と反省をしていたのだろう。
夜に出歩くのを俺が嫌ったからってのが、
一番の理由である事は言うまでもない。
玄関を開け菊地を見るなり、二発ぶん殴ってやった。
一発は奴の自責の念を和らげるため、
一発はコンパなんぞに行ってて俺を苛つかせた事への贖罪のめに。
言葉で許されるよりも、殴られた方がすっきりする事もあるしね。
まぁ、二発目は俺の個人的な怒りだが。
菊地に経緯を細かく話し、その晩は二人して興奮したり怖がったり……
今思うと当たり前の日常だなぁ。
菊地からは、あの晩のそれからを聞いた。
あの晩、逃げたした時には、林は明らかにおかしくなっていた。
林の車の中で友達と待っていた菊地には、
まず間違いなくヤバい事になっているって事がすぐに分かったそうだ。
でも、後部座席に飛び乗ってきた林の焦り方は尋常じゃ無かったらしく、
車を出さざるを得なかったらしい。
「反抗したりもたついたりしたら、何されっか分かんなかったんだよ」
菊地の言葉が状況を物語っていた。