北大路魯山人の毒舌・皮肉(グルメ漫画『美味しんぼ』海原雄山のモデル)

日本のガストロノミーや料理人、陶芸家なら読んでおきたい昭和の偉大な芸術家で美食家の著作から辛口コメントをピックアップ。痛快?傲慢?星岡茶寮の料理人や料理研究家から外国かぶれの食通気取りまでバッサリ!出典は日本料理の要点、フランス料理について、味覚馬鹿、デンマークのビールほか。

kabusake さん

42 PV

<人をバッサリ>
・京都人はケチ!?
・東京人は美食知らず!?
・地方人をバッサリ
・他の食通や半可通、外国かぶれをバッサリ
・味覚馬鹿(?)をバッサリ
・料理人をバッサリ
・料理研究家をバッサリ
・料理放送・雑誌記者をバッサリ
・栄養論者・健康論者をバッサリ
・客人をバッサリ
<欧米料理をバッサリ>
⇒海外の和食店、酒類を含む
<食材をバッサリ>
・不良食材
・鮎
・かつお
・ほうれんそう
<芸術家をバッサリ>

京都人はケチ!?

関西の、ことに京都などの安物の茶碗蒸しのほうが、よい料理屋で卵を多く使って吟味したのより、料理になっている。この安い茶碗蒸しが美味いと言うのは、卵を経済的に使っているからである。(略)。元来、京都人というのは、昔からケチなので評判だが、そういう京都のケチンボウから割り出された料理で、なかなか捨て難い。

出典 『茶碗蒸し』

京都は古来水明で名高いところだけに、良水が豊富なため、いい豆腐ができる。また、京都人は精進料理など、金のかからぬ美食を求めることにおいて第一流である。そういうせいで、京都の豆腐は美味い。

出典 『美味い豆腐の話』

東京人は美食知らず!?

もともと東京人は美食知らずであるから、仔細に食を楽しむという人は極めて少ない。

出典 『美味い豆腐の話』

京阪のような大都会でさえ、のりの焼き方を知らないのであるから、いわんや地方ではいうをまたない。東京といっても、地方の人が大部分で、存分なのりの焼き方のできるひとは稀なことであろう。百円ののりを五十円ぐらいに下落させて食べているのが大部分である。

出典 『雑煮』

(注:京都あたりの六月中の鮎の)長さでなら五、六寸のがよいようである。それが八寸も九寸もあって、あじかさばのようになって、東京人じゃないが、鮎の大きさを得意になってよろこぶようになったのでは、もう面白くない。

出典 『鮎を食う』

鮎はそのほか、岐阜の雑炊とか、加賀の葛の葉巻とか、竹の筒に入れて焼いて食うものもあるが、どれも本格の塩焼きのできない場合の方法であって、いわば原始的な食い方であり、いずれも優れた食い方ではあるが、必ずしも一番よい方法ではない。それをわざわざ東京で真似てよろこんでいるものもあるが、そういう人は、鮎をトリックで食う、いわゆる芝居食いに満足する輩ではなかろうか。

出典 『鮎の食い方』

(大正八、九年の好況時代)なにしろ世間の景気がよくて懐に金がある。そこへ持ってきて、大あゆなるものが東京人士には珍しい。あゆの味のよしあしなどてんで無頓着な成金連だから、あゆの大きさが立派で、金が高いのも、彼らの心持にかえってぴったりするというようなわけで、自己暗示にかかった連中が、矢も楯もたまらず、なんでも春日のあゆを食わなければという次第で、この店は一時非常に栄えたものだ。

出典 『インチキ鮎』

地方人をバッサリ

地方人がおのおの自分の土地のあゆがいいとか、まつたけがいいとか、たけのこがいいとか、我田引水を絶叫するのは、要するにその土地にいて、その土地の新鮮なものを口にするからうまいのであって、遠くから来たものを食っては、うまかろうはずがない。たいてい土地のひとが、めいめい自分の土地のものにかぎるというのはこの理由によるのである。
 しかし、地方人は都会人のように、さまざまのものを体験していないから、勢い我田引水におちいる。あゆにしても、まつたけにしても、いろいろと経験してこれがいいということにならないと、ものの真価をつかむことはできないものだ。井の中の蛙(かわず)で世界はこれだけだと思うようでは、いつまでたっても、ものの真価はつかめないのである。

出典 『鮎の名所』

他の食通や半可通、外国かぶれをバッサリ

『食道楽』の著者村井弦斎などのあゆ話にはこんなミスがある。「東京人はきれい好きで贅沢だから、好んであゆのはらわたを除き去ったものを食う」ここが問題なのだ。(略)。
 これはたまたま当時、急便運送不可能の都合上、東京にはらわたがついたままのあゆがはいり得なかったまでのことで、弦斎の味覚の幼稚さを暴露したものである。今日食道楽といわれているひとの中にも、ずいぶんこの種のひとがいる。彼らの著書をみれば一目瞭然である。一般的にいえば、彼らの著書の内容は、辞書の受け売りや他人の書物のつぎはぎで、著者自身の舌から生み出された文章はまったく稀である。

出典 『弦斎の鮎』

必ずしも食道楽家であるがゆえに食通ならず

出典 『日本料理の要点』

フランス料理の声価は、世界第一のごとく誇大に評判され、半世紀以上に渉って、われわれ日本人を信じさせてきた。フランスに派遣された役人たちによってである。考えてみると、だいたいみながみな若輩で、もとより日本料理というものが、今までにどんなに発達してきているか、てんで知る由もない連中ばかりであったからだ、とわれわれが想像して慨歎するのも、あながち誤りではなさそうである。

出典 『フランス料理について』

上は大使、公使、下は貧乏画家青年、その皆が日本美食を通暁するはずのないことはいうまでもない。日本料理の真価というものがどこにあるか、ぶつかったこともなければ、気にもんだこともなさそうなひとたちばかりである。その若人によって、むやみと誇大に、フランス料理は日本人に宣伝されてしまったらしい。いわゆる若気の至りというやつである。

出典 『フランス料理について』

カタツムリなど珍しがって喜ぶ仏人、だいたい日本酒の半値であるワインを貴重にして飲み続ける仏人、これを礼賛して自己の名誉のごとく感ずる色眼鏡党、日本人の贔屓客。いつになったら自分の識見で物を見、自分の舌で味を知ることができるのか。嗚呼。

出典 『フランス料理について』

日本人にして、日本を知らない連中が向こうへ行くものだから、外国へ行っても日本のことを教えることができない。 これは日本のために大変な損失である。また外国のためにも損失である。 名物と言えば、フジにゲイシャ、奈良では鹿にセンベイをやることしか、自慢し教えないのだから、向こうの人間は日本について知る由もない。いわんや、日本料理など分るわけがないのである。

出典 『すき焼きと鴨料理――洋食雑感――』

フランスの鴨の話にしても、話す人間が話に聞くだけで、実際に行ってはいないらしい。なにしろ一羽一万円するのであるから、初めから敬遠しているのである。趣味も食道楽もあったものではない。向こうで日本人が行くところと言えば、場末の居酒屋みたいな小さな店である。しかも、その小さなお店で“学ぶ”という気持だから、自由な注文も質問もできはしない。鴨料理の店「ツール・ダルジャン」のように堂々とした造りで、正装のボーイが鷹揚に構えているようなお店では、声も出ないのだろう。

出典 『すき焼きと鴨料理――洋食雑感――』

タキシードを着用に及んだボーイが、銀盆の上で丸裸の鴨をジュージューやってスープを取っている。 早速、ボーイが私たちのところへ持って来た鴨は、半熟にボイルしてあり、二十四万三千七百六十七番という由緒を示す番号札が添えてあった。ボーイは見せるだけ見せると、番号札を残して鴨を持ち去った。 私は案内の者に、
「あんなことをしていちゃあ美味く食えない。食ったところで肉のカスを食うみたいなもので、カスに美味い汁をかけているに過ぎない。ほかの客のはあれでよかろうが、こちらは丸ごと持ってこいと言ってくれ」と頼んだ

出典 『すき焼きと鴨料理――洋食雑感――』

味覚馬鹿(?)をバッサリ

頭や腸を除いて若鮎を食うような人は、鮎でなくてもよいだろうから、牛肉とでも取り換えてもらうがよい。

出典 『若鮎の気品を食う』

つまらないものを食って、一向気にしない人間を見ると馬鹿にしたくなる。

出典 『味覚馬鹿』

低級な人は低級な味を好み、低級な料理と交わって安堵し、また低級な料理をつくる。

出典 『味覚馬鹿』

料理人をバッサリ

飯を食わなければ後腹がわるい、という飯好きの日本人から愛想をつかされた形の現今の日本料理は、これを大部分、日本料理人の無知無能にその責を帰さなければならない。

出典 『日本料理の要点』

実際における料理屋の料理は、かつて名僧良寛和尚によって喝破され、否定されたように、全く不合理極まるものであって、そのほとんどが無理、無意義をもって成り立っていることは、まことに遺憾である。その原因は、宴会料理などでお客が要求する見てくれをよしとする不純な注文にも一因はあるが、また、一面には、従来の料理人の、そのほとんどと言っても差支えないほど、いずれも、無知、無能、無修養に由来すると見ねばならないのである。

出典 『日本料理の要点』

さて、料理人だが、なぜ今日まで、このように料理を不純にし、不合理にしてきたのだろう。(略)従来の料理人は、みながみな、あまりにも無修養であったということ、それが根本になっている。読書はおろか、世上のことについて、あまりにも知らなすぎる。この世間知らずの無教育者が、世上のあらゆる階級を相手の料理をしているのだから、すでに、そこに無謀が胚胎しているのである。矛盾が生じているのである。

出典 『日本料理の要点』

頭もなし、知恵もなし、修養もなし、天才もなし――と言った料理人が、今日、料理でもって飯が食っていられるというのは、つまり、彼らよい頭脳の持ち主が、みずから料理づくりに頭を振り向けないからの僥倖である。

出典 『日本料理の要点』