その昔、神に仕えている巫女は、神の申し子であると信じられおり、男達は巫女と性交を持つことで神に近づけるというような崇拝的な考えがあった為、不浄と
いうようなものではなく、神がかり的な存在だったようです。
そして巫女から産み落とされた子供達はまた神の子として大切に育てられたそうです。
夫婦の間に、その子宝の子供が出来ない、生まれないという事はお先真っ暗状態であり、解決法として、子供を拾ってきたり、または嫁に神主の子種を頂いたり、巫女さんに子供を生んでもらったりしていたそうです。
昔の巫女さんは、現在とは全く存在の意味は違いますが売春婦の先駆けのような人達で、どこの誰かもわからない子供を生みはしましたが、その子供達は神の子とされ、子供のいない夫婦の間に渡されたりしたそうです。
古代から時はずいぶん経過し、8世紀に入り奈良時代が来ると、天皇を中心とする政権体制が整い、国家精力は、北はは東北地方から暖かい九州南端にまでおよび、都を中心に大陸文化の影響が強い天平文化がさかえた。
そして巫女さんが行っていたような宗教的な意義が薄れ、徐々に売春(当時、言葉は未だ無いが)というものが職業化していった時代でもあり、これが遊行女婦というのだそうです。遊行女婦の名の由来は、巫女さんが当時全国各地を、めぐっていたことにより各地でこの名が付く事になったそうです。
平安時代に入ると都では十万人以上の人々が生活しており非常に栄えていたようです、そこではどのような形式なのかは良くわかりませんが、もちろん女性も売られており、女性は身を売る代償に布や食料を受け取っていたようです。まだ少し宗教的な意味も若干ではあるが名残があり、都の「市」で身を売る事で、心身の汚れを清める作用があると信じられていたようで、夫がいても罪悪感は無く通りすがりの男達との性交をお楽しみ頂いたそうです。
9世紀ごろ当時、唐の国の長安で男の娼婦?が流行っており、遣唐使船に乗った僧が唐に渡り、新しい性交スタイル(男性と交わるスタイル)に味を占めてしまい、日本に帰国時、その性交スタイルを日本に広めたそうです。
当時のお坊さんは、女性と交わると厳しく罰せられていたそうです。
遊女(売春婦の前身)が登場。
遊女といっても江戸時代の遊郭のように廓内に閉じ込められ自由が無く、逃げ出せない、早死にといったような暗いものではなく、歌や舞を披露しおまけに性も売るという女性などが多くいたようで、自由勝手に貴族達の宴にいきなり集団で押しかけて歌を歌い金銭を貰ったり、売春をして貴族の身にまとっている着物をその場で貰ったりと、当時の遊女はかなり自由な振る舞いが出来たそうである(いきなり宴会に現れて歌を歌い股を広げて男を誘う女とは凄い女達である)。
平安中ごろには、白昼ふらふらと売春に出歩くものを「遊女」、夜になってから売春するものを「夜発」といっていたようです。その後、やがて遊女も夜発も同じ売春婦として認識されるようになり、このころ男性には快楽を求める趣向が強まる傾向にあり、各地に娼婦の集まる館ができていた。 白拍子などと呼ばれ、舞などをしながら性を売る女性で、姫などとも呼ばれたようです。
鎌倉時代では、当時のお金持ちや富豪の家には都の貴族や政府の高官が旅の途中立ち寄る習慣があり、その際、家の主人は自分の妻に泊まった人達の身の回りの世話や夜の相手までさせていたようです。
その後、客の接待には専属の女性を雇うように変化し鎌倉時代中期以降は、それが更に変化し金銭を目的とした売春に変わっていったようです。
また、港の商屋が顧客や船のり達を家に泊め、その接待婦として専属に雇われていたり、街道の宿屋で給仕の女が売春をすることもあったようです。
12世紀までに 遊女屋主人・長者を中心に、定住した遊女の組織化がなされていく。源頼朝が征夷大将軍に任じられた翌年の1193年には、鎌倉幕府により遊君別当(ゆうくんべつとう) という役所が設置された。買春に対する、幕府の影響が見られるようになる。
鎌倉時代になると、武士の酒宴や陣中には必ず遊女が同席していた。武士などが宿駅通過の際に多数の遊女を集めたため、幕府はそれを管理しようとしはじめる。日本の中世の公娼制度は次第に直接的な国家統制を受けるようになっていった。
この時代の売春婦たちは、ほとんどが遊行女婦と呼ばれ、芸を見せる傍らやはり性を売っていて、売春婦達は身を売る他に、低俗ですが男と女が観衆の前で性交を行う見せ物をしたり、犬と女との間での交わりをを見せ物とし、金品を稼いだりしたようです。
そのような性の見世物のひとつに「歌舞伎踊り」というものがあり、出雲の巫女であった阿国が女性だけの一座をつくり、宝塚のように男装して踊ったのは有名である。
売春は権力の統制と保護を受け、徴税の対象となっていく。遊女たちは公的な遊廓として1箇所に集められるようになっていき、国家の収入を確保する上でも無視できない存在となっていった。
室町時代に入ると、足利氏は、傾城局(けいせいのつぼね)という役所を作って、遊女から徴税しはじめた。豊臣秀吉が1590年に全国統一するが、秀吉はこの前後にも遊女町を許可している。遊郭は政府直轄であり、遊郭の遊女は公娼だった。
1585年に、大坂三郷に遊女町を許可
1589年には馬丁の原三郎左衛門・林又一郎に京都二条柳町に遊里開設を許可
1596年には、京都伏見撞木町に林五郎が、秀吉の許可を得て、遊里を開業
政府の統制からはずれた非公式な遊女の集まる場所として、宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)や門前町などの岡場所(おかばしょ)、茶屋街があった。公娼ではない私娼は、飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)と呼ばれた。
16世紀末には「風呂屋」が現れはじめ、博多に遊里が出現、さらに博多の遊里は長崎へと進出し、南蛮人相手の遊郭となっていった。遊郭は、南蛮貿易とも結びついた。
公娼だけでなく、私娼であっても、古くから組織化され、宿や料亭、風呂屋という建前での売春業が行われていた。(現在の新地やソープランドの構造によく似ている。)
有名な吉原遊郭もこの時期に誕生します。
この時期江戸では50万人以上が生活しており、当時としては世界的に見ても大都市であったようです。当時、男女の人口比率は男性の方が圧倒的に多く、また、参勤交代で地方から男の武士達ばかりやってくるので江戸の町は本当に男だらけだったようで、当然あっちの方も元気なわけで、娼婦が街中に出没するのは自然の成り行きだったようです。
当時、大阪、駿河では既に幕府公認の遊郭があったが江戸にはまだ無く、風紀を統制する為、先の大阪、駿河に習い、遊郭を造り、そこへ娼婦などが集められた。
当時、大阪、駿河では既に幕府公認の遊郭があったが江戸にはまだ無く、風紀を統制する為、先の大阪、駿河に習い、遊郭を造り、そこへ娼婦などが集められた。
吉原というのは実は「元吉原」と「新吉原」があり、元々は日本橋葺屋町にあった湿地に作られたが、吉原遊郭歴史の中で営業していたのはたった四十年だけで、しかも昼間しか営業の許可がされておらず客層は昼間からうろうろしているような武士が中心だったそうです。その後、江戸は更に開発され繁栄し、元吉原が江戸の中心的な場所に存在していた為、幕府はその事を余り快く思っておらず、また、江戸の大火により吉原も全焼、それを機に江戸の端っこ、現在の地へと移されてしまったようです。と同時に違法の売春婦や売春宿も閉鎖され、あふれた売春婦も新しい吉原へ。
新吉原では、夜の営業が許されることになり、客層も武士から町人の客へと変化していきました。売春婦も増え、最終的に7000人を越えるまでになり、新しい吉原は幕府の公認の下、明治時代まで繁栄する事になったそうです。
現在一般的に「吉原」と呼ぶのは新吉原のことです。
遊郭と性病
江戸には幕府が公認している吉原遊郭のほか、ありとあらゆる場所に売春街や女郎屋があり、また、街角では夜になると幕府非公認の夜鷹(現在で言う立ちんぼ)が出現していました。
とにかく江戸の町は売春が横行していたようです。
当時吉原の遊女というと特別な存在で、また売春を行っている遊女と夫婦になるということは単に売春婦と結婚すると言うような感覚ではなく、当時の遊女は頭も良く教養もあった為、遊女を娶るという事、それは男の憧れであり、ステイタスでもあったようです。現在とは感覚が違い、幕府公認で世間も認めた場所で働いている女性と夫婦になるということもあり、けっしてスキャンダルではなく、ややこしい話ですが、借金の為、仕方なく幕府公認の遊郭で働いている、美人で教養もある素晴らしい女性を、お金を出して助け出し、夫婦になるという、お涙ちょうだいのお話かもしれません。
もちろんお金が無くてはそんな事到底出来るわけも無いので男の甲斐性でもあったわけです。
そんなお涙ちょうだいのお話もありますが、そんな話はほんの僅かでしかなく、遊女自体は悲惨な人生である事には違いない、14〜5歳で連れてこられ、毎夜、不特定多数の客と相手しなければならない為、勿論性病に侵されるわけで、当時もちろんコンドームなどは無く、梅毒や淋病などの性感染症に対しては無防備極まりない状態でした。遊郭には性病が蔓延していて、恐ろしい事に遊郭で遊んで性病に感染する確立は30%〜40%の確立だったそうです。もちろん抗生物質などあるわけも無く、感染すると、完治することは無いのです。
また、医学の全般の知識が発達していないこの時期、性病などで働けなくなった遊女は養生小屋の別荘へ送られました。そして運が悪い場合はそのまま寂しく死んでゆくのです。
(遊女達の平均死亡年齢は20代前半だったようです)
公には禁止されながらも、日本の輸出品目には常に多数の奴隷が含まれていた。南蛮貿易が始まり、火薬が輸入されるようになると、奴隷の輸出が加速した。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになった。1582年ローマに派遣された少年使節団の一行は、世界各地であまりに多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚いたことを報告している。
安土桃山時代には、日本の商人はフィリピンや東南アジアまで活動域を広げていた。だが、インド洋を自由に交易していたイスラム商人や後からやってきたヨーロッパ人と比べれば、ビジネスの規模はずっと小さいままだった。
戦国の混乱が終わり、社会情勢が安定になった江戸時代、幕府は実質的に収量の40%、他のアジア諸国と比べて格段に高い年貢を納めさせていた。それでも国外に輸出できたわけではなかった。結局、日本は管理できる余剰の生産力を持っていなかった。
秀吉に遊里開設を許された林又一郎は、戦国浪人で、はじめ秀吉の馬廻りとして仕えていた人物だった。彼は秀吉の没後、寛文年間に大坂の新町遊廓に妓楼・扇屋を開くと、京都の花柳だけでなく、大阪にも遊女をかかえ、後に東京の吉原にも遊郭を構えるようになる。この扇屋は以後この又一郎の子孫代々がその経営にあたって幕末まで続いた。
日本の人身売買は、一方の行き先が遊女であり、もう一方の行き先が海外へ密輸された奴隷だった。
江戸時代、幕府は人身売買を禁じまた。だが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立していく。
日本の商人は、国外から付加価値のあるものを輸入し、日本国内で売りさばき、代価として、古くは、銀や銅、工芸品、さもなくば人間そのものを輸出していた。後に、生糸や茶が輸出されるようになり、昆布や海苔といった海草類などが輸出されるようになっていくが、やはり奴隷は重要な交易品目だった。
婚、嫁、結婚などの字を古くは「よばふ」「よばひ」と呼んだ。これは「呼ぶ」の再活用形で「つまどい」「つままぎ」などの語と共に求婚のために男が女のもとに通うことを意味した。昔の婚姻は結婚後も男が女のもとに通うのが普通であり、このことも「よばい」と言われた。
古代日本の夫婦関係は「妻問い婚」であり、男女はそれぞれに住んでいて妻の元へ夫が通ってゆく形態であった。結婚というのは、家族に隠れてこっそりと夜這いを行うのではなく、堂々と通えるようになることを意味した。そもそも各地の共同体(村社会)においては『一夫一婦制』と言う概念も希薄で、重婚、夜這いは当たり前であった。
かつての農村では、「村の娘と後家は若衆のもの」という村落内の娘の共有意識を示す言葉が聞かれることがあった。近代化以前の農村には若者組があり、村落内における婚姻の規制や承認を行い、夜這いに関しても一定のルールを設けていた。ルールには未通女や人妻の取り扱いなどがあり、この辺りの細かい点は地域によって差がみられた。
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