当時、大阪、駿河では既に幕府公認の遊郭があったが江戸にはまだ無く、風紀を統制する為、先の大阪、駿河に習い、遊郭を造り、そこへ娼婦などが集められた。

吉原というのは実は「元吉原」と「新吉原」があり、元々は日本橋葺屋町にあった湿地に作られたが、吉原遊郭歴史の中で営業していたのはたった四十年だけで、しかも昼間しか営業の許可がされておらず客層は昼間からうろうろしているような武士が中心だったそうです。その後、江戸は更に開発され繁栄し、元吉原が江戸の中心的な場所に存在していた為、幕府はその事を余り快く思っておらず、また、江戸の大火により吉原も全焼、それを機に江戸の端っこ、現在の地へと移されてしまったようです。と同時に違法の売春婦や売春宿も閉鎖され、あふれた売春婦も新しい吉原へ。

新吉原では、夜の営業が許されることになり、客層も武士から町人の客へと変化していきました。売春婦も増え、最終的に7000人を越えるまでになり、新しい吉原は幕府の公認の下、明治時代まで繁栄する事になったそうです。

現在一般的に「吉原」と呼ぶのは新吉原のことです。