在日韓国人はこれが原因で日本に残った?!未だに残る韓国の差別制度”キーセン”がえぐすぎる...

妓生 (きしょう、キーセン)という李氏朝鮮からのこるカースト制度がえぐい...

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キーセンとは?

妓生 (きしょう、キーセン、기생) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕[1][2][3]などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。

甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。

高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万 - 3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10 - 20名、郡に30 - 40名、府に70 - 80名ほどが常時置かれていた[4]。

高麗時代 (918年-1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になった[1][14]。

官妓 (女官)・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を習わせ女楽 (高麗女楽) とした。高麗は政府直属の掌学院[11]を設立し、官妓らはそこに登録され、歌舞や医療などの技芸を担当した。
辺境軍人の慰安婦として

掌学院に登録された妓生は次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった[1][2]。

李朝時代にも妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した[15]。

李氏朝鮮時代の妓生は女楽のほかに宮中での医療を行い、衣服の縫製もしたので、薬房妓生、尚房妓生という名称も生まれている[16]。妓生は、官に属する官妓 (妓女・ソウルに仕える宮妓と地方の郷妓に分かれる) と、私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身を持ち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在した。一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もし

妓生制存廃論争

1392年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された[1]。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている[1]。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使 (官吏) が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した[17]。
妓生庁
平壌にあった妓生学校

李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った[11]。

燕山君と妓生

李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した[18]。

とりわけ燕山君は暴君、もしくは暗君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した[19]。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した[19]。

燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた[19]。燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれる一方でこれらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。

運平・青女

燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平 (うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた[19]。全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している[19]。
妓生と外交
燕山君の時代などでは王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった[19]。川村湊はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評した[15]。

日本の韓国併合までそれは続いた、日本

朝鮮の開国と日本の遊郭業の進出

1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊廓なども開業していった[14]。日本や海外からの文化流入により、妓生制度にも変化が見られるようになった。日本の芸者や遊廓制度、ロシアなどから白人の外娼 (甘人=カミンと呼ぶ) などが入り込み、従来の妓生制度と融合して区別が無くなっていった。李氏朝鮮末期には妓生組合が作られているが、これにより、従来雇い主を必要とした妓生も主人を持たない妓生業が行えるようになった。

また、地方の妓生がソウルに入り込み、妓生の形態が激変し、日本統治時代に確立した公娼制度に組み込まれた。また、大韓帝国の時代までは初潮前の少女を妓生とすることも多かったが、韓国併合後に少女を妓生とする事は禁止された。

金一勉と金両基は、朝鮮の都市に公然と遊廓が登場したのは日本人の登場以来の事で、朝鮮各地に娘の人身売買が公然と横行するようになったと主張している [27][28][29]。

日本政府による取り締まり

1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた[14]。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札 (営業許可証) の取得を義務づけた[14]。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された[22]。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認 (営業許可制) され[22]、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊廓が形成された[14]。

日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した[22]。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった[14][22]。

1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった[14]。同1906年には龍山に桃山遊廓 (のち弥生遊廓) が開設した[22]。日本人の居住地で知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、太田の春日町などには数十軒から数百軒を数える遊廓が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜が軒を連ねた[30]。
妓生取締令
日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した[14]。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ[14]。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された[14]。

つまり日韓併合による開国で海外との交流が活発になり、売春バブルが起きたせいで人身売買が横行したから日本政府がこれを取り締まる目的で公娼制になったんですね。

併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった[22]。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷[31][22]であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた[31][22]。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた[22]。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している[22]。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている[22]。

朝鮮では「性経験のない女性がその80パーセントは斡旋先が売春業であることを知らされずに外地に売られた」と金富子は書いている[79]。「忘八」と呼ばれた遊郭業者は[80]、日本でもしばしば就業詐欺を働き、娘を騙して海外に売っている[81]。『廊清』1937年7月号は「女給、ダンサー募集の美名で女性を偽り、北支・上海などに売り飛ばす不届き者がある」と伝えている[82]。維新政府の娼妓解放令の後も「娼妓達が悲惨な籠の鳥であるという実態は変わらず」[83]、悪徳業者にかかると借金の泥沼から抜け出す事ができず、「まさに前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題(廊清会の内相あての陳情書)に違いない」と秦郁彦は書いている[83]。伊明淑は「元慰安婦51人の内、31名が誘引・就業詐欺によって募集された」という

このヤバ過ぎる売春業者が今日の従軍慰安婦という問題を作り上げた

日本軍の慰安婦は日中戦争の頃より日本軍の要請により民間の斡旋業者によって集められ、日本軍の占領各地の慰安所に派遣された。慰安所は軍の管理の下、民間人が経営していた。慰安所のあった地域は、満州・中国・台湾・沖縄・東南アジアに渡る。慰安婦は内地や朝鮮・台湾から派遣された日本人・朝鮮人・台湾人のほか、占領地で集められた中国人や東南アジアの人たち、インドネシアを植民地にしていたオランダ人もいた。多くは朝鮮人や日本人で、高額な報酬を得ていたとされる[要出典]。1945年の日本の敗戦とともに消滅した。戦後、韓国は日本軍が関与した韓国人慰安婦を問題視し、日本との間で慰安婦問題へと発展している。
日本軍慰安婦の総数
詳細は「日本の慰安婦問題#慰安婦の総数」を参照

慰安婦の総数が把握できる正確な資料が発見されていないため、軍人の総数・公娼の人数などから複数の研究者により推論されている。その数は2万~40万人と幅広いが韓国や国連では20万人説が多い。ただし日本ではこの20万人説について根拠がないとの反論がある。(千田夏光#朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説を参照)

戦争が終わってもキーセンの不幸は続く...

朝鮮における引揚女性への性暴力

朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団強姦行為をおこなった。強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の1946年(昭和21年)の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人であり、場所は朝鮮半島が38件と最も多く、満州4件、北支3件であった[132]。1947年に閉鎖されるまで二日市保養所では4,500件の中絶手術が行われた[133]。ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの自伝『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』でもソ連軍や朝鮮共産党軍に日本の市民が朝鮮半島において暴行・強姦の被害にあったことが記録されている[134]。
「引揚者#朝鮮人、朝鮮保安隊、ソ連兵の強姦虐殺」も参照

ほかにも八路軍による通化事件が起きたほか、引揚列車から拉致された女性もいた

そんな国に帰りたくないがために無理やり日本に残ったのが今の特別永住権を持った中国、韓国、北朝鮮の人々

日本の敗戦と共に、在日朝鮮人たちは各地で朝鮮人会、朝鮮人組合などの朝鮮人団体を結成し日本人との賃金格差撤廃などの運動を開始し、全国組織の在日本朝鮮人連盟へと急速に糾合されていった。また、敗戦後、朝鮮人らは中国人・台湾人などとともに「第三国人」と呼ばれた[68]。三国人は自らを「連合国人」「解放民族」と自称し、集団強盗、略奪、強姦、殴打暴行、破壊、占拠監禁などをおこない、日本人との軋轢を生じさせることが多々あった[69]。

終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故もあったが[70]、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。

GHQと日本政府は朝鮮人の引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している[71]。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている[72]。

その後、朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった[73]。戦前・戦中から、朝鮮人の多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活していたため、日本語を巧く話せず、生活基盤は脆弱であった。GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至った。その後日本は戦後密航者も含めて在日の韓国への帰還を要請したが、韓国政府は消極的であり、後に日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された[74][75]。

一方韓国に帰国した韓国人は事実上復活した身分制度に苦しめられている。お家芸ですね。

李王朝時代の身分制度は、日本の強い内政干渉により廃止された。ところが、戦後の韓国では、資産と肩書を主軸にして事実上の身分制度が再編された。かつての両班(ヤンバン=貴族)に当たるのは財閥オーナー一族、財閥の番頭たちだ。

 今日の両班は、まさに「お前らとは身分が違うのだ」とばかり、違う会社の社員にも威張り散らす。そして、かつての両班が何をしても、とがめられなかったように、今日の韓国でも「有銭無罪」がまかり通る。

宅配ピザチェーン2位のMPK(ミスターピザ・コリア)グループ会長(68)によるビル警備員暴行事件は、今日の両班の横暴さを如実に示す。

 事件は4月3日の夜、ソウル・西大門(ソデムン)の雑居ビルで起きた。このビルには、MPKの新しいテナントが入っており、会長は側近をつれて視察に訪れた。午後10時、ビル警備員はいつもの通り、ビル正面のシャッターを下ろした。その後も、入居者は横の通用口から外に出られる。

 視察を終えて帰ろうとした会長は、シャッターが下りていることに腹を立てた。「俺様がまだこのビルの中にいるのに、なぜシャッターを下ろしたのだ」というのだ。念のために述べておくが、MPKはこのビルの所有者ではない。ただの店子(たなこ)だ。

 警備員(59)は呼びつけられ「頬を殴られるなど、侮辱的な暴行を受けた」と述べている。

 MPK側は「(会長は)手を上げたが、周りの人がすぐに止めた。警備員とはもみ合い程度で済んだ」と弁明している。仮にMPKの言う通りだとしても、「俺様が…」の“両班意識”は明らかだ。

告発を受けた警察がすぐには動かず「近日中に会長を呼ぶ」と対応したのも、面白い。早く示談してくださいよ、つまり「有銭無罪」への布石だろう。

 「ナッツ姫事件」は、まさしく同じ社内でのパワハラだったが、ナッツ姫が運輸省の事情聴取を受けることになると、大韓航空グループの社長たちが何人も運輸省に押し掛けた。そして、トイレの清掃作業員を呼びつけて「お嬢様がお使いになるかもしれないから、もう一度掃除をしろ」と命じた。

 清掃作業員が運輸省の雇員なのか、出入りの業者なのかは分からない。ただ、作業員が大韓航空グループの社長たちの指揮命令を受ける立場にないことは明らかだ。

 しかし、作業員は掃除を終えたばかりなのに、改めて掃除をした。“両班様たち”のご意向には逆らえない-そんな社会的風潮、すなわち法律に基づかない今日の身分制度が機能しているからだ。

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