併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった[22]。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷[31][22]であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた[31][22]。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた[22]。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している[22]。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている[22]。