その後、朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった[73]。戦前・戦中から、朝鮮人の多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活していたため、日本語を巧く話せず、生活基盤は脆弱であった。GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至った。その後日本は戦後密航者も含めて在日の韓国への帰還を要請したが、韓国政府は消極的であり、後に日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された[74][75]。