北大路魯山人の毒舌・皮肉(グルメ漫画『美味しんぼ』海原雄山のモデル)

日本のガストロノミーや料理人、陶芸家なら読んでおきたい昭和の偉大な芸術家で美食家の著作から辛口コメントをピックアップ。痛快?傲慢?星岡茶寮の料理人や料理研究家から外国かぶれの食通気取りまでバッサリ!出典は日本料理の要点、フランス料理について、味覚馬鹿、デンマークのビールほか。

kabusake さん

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(星岡茶寮の新雇いの料理人に対して)このたび、諸君が腕をふるって、私たちに示されたものを見るにつけても、甚だ遺憾に堪えぬものがあるのである。料理の技法の点においても、その点睛のための味付けの点においても、甚だ不徹底極まるものであって、これがかつて、それぞれ京都一流の旗亭に在って、主要なる務めを果されていた諸君の仕事とは、どうしても受け取れなかったのである。

出典 日本料理の要点――新雇いの料理人を前にして――

家庭の料理は気儘が利く。故に、自然とその自己に生きるところがあるために、その本来の要旨を失うところが少ないが、料理屋の料理となっては、世間の様子、人の顔色といったようなものを気にしつつ進まんとする傾向があるので、大事な大事な手元の自己というものを失ってしまい、知らず識らずの間に、料理を非合法的なものにしてしまい、遂には得体の知れない怪料理をなすに至るのである。

出典 『日本料理の要点』

(星岡茶寮の新雇いの料理人に対して)元来、諸君は料理屋の料理をつくることにおいて、甚だしい誤解をしているのである。食品原料の特質を殺し、形を変え、色を変じ、味を別にして、一見一喫して、なおかつ、なんの原料によってつくった料理であるか、素人には容易にわかりにくいものにし、得意の鼻をうごめかすふうがある。

出典 『日本料理の要点』

わたしなどから見ますと、料理屋の料理は、形式的にはまずととのっておりますが、どうしても商売として繁盛せねばならない条件があるのでお客の意見を聞き、それに迎合するという意味のみになって、料理から個性というものが失なくなり、ただ上っすべりした万人向きの無意義な薄っぺらなことにして、お茶を濁しているように思われます。上っすべりした迎合の料理というものは、決していいものではありません。しかし、なにも知らんひとから見ますと、その料理屋のやっているつまらないことを立派なことのように思い、家庭でもやってみようというひともあり、それで料理屋も立っていくのでしょうが、料理屋のすべてを真似ることは見識ではありません。

出典 『衰えてきた日本料理は救わねばならぬ』

手をかけなくても栄養も摂れ、美味でもあり、見た目も美しいものを、いたずらに子供を騙すような料理をつくることは、料理人の無恥を物語るものであろう。

出典 『味覚馬鹿』

味に自信なき者は料理に無駄な手数をかける。

出典 『味覚馬鹿』

どうしても料理を美味しくつくれない人種がある。私はその人種を知っている。その名を不精者という。

出典 『味覚馬鹿』

低級な食器にあまんじている者は、それだけの料理しかなし得ない。こんな料理で育てられた人間は、それだけの人間にしかなり得ない。

出典 『味覚馬鹿』

料理研究家をバッサリ

料理研究家と称される人々が昨日に今日にテレビで料理講習をやっている。美味と感ずるもののなかで視覚にたよるものが大(だい)な料理なのに、テレビ料理に出てくる先生というのが、調理するのに腕時計・指輪をはめたまま、ひどいのになると、ご丁寧にも爪紅(つまべに)までしている。こんなのを見ると、食欲減退である。それに料理研究家が揃いも揃って爺さん婆さんなので、テレビで大写しにされる手が、これまた揃いも揃って薄汚い。料理はもともと理(ことわり)を料(はか)ると書く通り、美味い不味いを云々するなら、美味の理について、もっと深く心致さねばなるまい。

出典 『味覚馬鹿』

一顰一笑(いっぴんいっしょう)によって愛嬌をまき、米を得んとする料理研究家がテレビに現われて、一途に料理を低下させ、無駄な浪費を自慢して、低級に生きぬかんとする風潮がつのりつつある。

出典 『味覚馬鹿』

世上往々中毒事件を惹起している惨事の如きは、料理関係者の堕落が原因である。要は眼で見る色沢、鼻で嗅ぐ香気、口加減に見る味覚等により、善悪良否は判別されるものであるが、経験不充分な者、責任を敢えて感ぜざる者、全然無神経なる者、誠意無き者等によって、中毒原因の根本をつくっていると、私は見る者であって、食品原料を軽く取り扱う陋習を厳しく改めたいと念願している。

出典 『味を知るもの鮮し』

料理放送・雑誌記者をバッサリ

万人が日常食とするお惣菜料理の大部分は、あきらめの料理であって気の毒である。高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣をあり難がたいものにして、自分たちはこれでよいのだとあきらめているからである。 これにつけ込んだというわけでもあるまい、放送料理という困った料理放送が続いている。

出典 『味覚馬鹿』

ラジオで料理講習しているのをときどき聞いている。まさか豚や犬に食わす料理の講習ではあるまいな。豚や犬に食わせるようなものを配給したりするから、そこでラジオも、豚や犬に食わす料理を放送せねばならなくなるらしい。これは辛抱料理ばかりだ。そして今に、優生学の講習の後で、おそらく種男を募集するつもりだろう。

出典 『味覚馬鹿』

私は多年ラジオ料理にも注意深く耳を傾けつづけて来たが、その講師は男女ともに傾聴に価する講者を発見したことはない。いかなる家庭に育った人たちか、どんな料理経歴をもつ人々なるか、いずれもが低調な料理職人から学んだであろうことが、ほぼ察し得られるゆえに、生きた資材も、いらざる手間のために、味を損ね、料理学上無知の譏(そし)りを免れず、まことに噴飯に堪えないのが実情である。

出典 『味を知るもの鮮し』

僕のところに婦人雑誌の記者などが、なにか料理について話してくれって雑誌の記事をとりに来る。だが、そんなのにいったって、真に分ろうとしないんだから、いったってつまらん。なんでもそうだが、ちょっとおつとめで記事を取りに来る人なんかに、なにを話せるものかって、いつも話しゃしない。書く本人が分らんで、美味なんて記事はどうして読む人に分ると思えるものかって、いつもいってやるのさ。

出典 『味覚馬鹿』

栄養論者・健康論者をバッサリ

外人でも日本人でも、料理を心底から楽しんではいないようだ。味覚を楽しみたい心は持っているが、真から楽しめる料理は料理屋にも家庭にもないからであるらしい。栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履き違えをしているらしい。

出典 『味覚馬鹿』

栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履き違えをしているらしい。えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。好きなものばかりを食いつづけて行くことだ。好きなものでなければ食わぬと、決めてかかることが理想的である。鶏や飼犬のような宛てがいの料理は真の栄養にはならない。自由人には医者がいうような偏食の弊はない。偏食が災いするまでには、口のほうで飽きが来て、転食するから心配はない。

出典 『味覚馬鹿』

大抵は欲する美食とは縁遠い雑物を食事として堪え忍んでいるというのが、実際の生活になっている。あるいは無神経なるが故に、無頓着に過ごしている。そのいずれかである。
 それも貧者であれば思うにまかせぬということもあろうが、相当の富者にして、食の自由を知らずじまいに過ごしている者があるのは、まことに気の毒のかぎりである。それにこういう人々には、決ってなんらかの持病があるのを見逃すわけにはいかない。

出典 『味を知るもの鮮し』

世間、医薬に通暁する者、病後の療養に熱心な者は、数多く見受ける所であるが、目的を健康に置き、三度三度の食事の自由を高く叫び続けている者は容易に見当らない。ただもう世間並みに付和雷同し、個性なき食物、いわば家禽の如く宛てがい扶持に大事の一生をまかせているかである。

出典 『味を知るもの鮮し』

客人をバッサリ

客になって料理を出されたら、よろこんでさっそくいただくがよろしい。遠慮しているうちに、もてなした人の心も、料理も冷めて、不味くなったものを食わねばならぬ。しかも、遠慮した奴にかぎって、食べ出せばたいがい大食いである。

出典 『味覚馬鹿』

欧米料理をバッサリ

わたしはフランスその他の料理にあまり多くのものを期待してはいない。"欧米諸国の料理に失望す"というようなことになるであろう。まずい魚介、まずい肉、まずい蔬菜といった材料ではなにができるものでなし、心に楽しむ料理など、もとよりでき得るものではない。しかし、なんとかものにしようと苦心し、工夫しているのが、ヨーロッパや中国の名料理であるようだ。そこには無理がともない、愚劣が生じ、人意の単調もうかがわれて怪しいものである。かりに口になじむとしても、目に訴えて、心を喜びに導くような美しさは望むべくもないようだ。

出典 昭和29年の欧米旅行に際して。『欧米料理と日本』

アメリカの人工料理、これはテストするまでもなさそうだが、ヨーロッパ料理は一応テストに価しよう。

出典 昭和29年の欧米旅行に際して。『欧米料理と日本』

概してアメリカの牛豚類の肉は、うまくありません。辛うじて小羊の脇腹の肉が合格程度、ミルクも卵もよろしからず。

出典 『アメリカの牛豚』

僕のテストでは、その料理の発達振りはバカバカしく幼稚なものであった。微妙な工夫、デリケートな魅力を持たねばならぬはずの「味」は、終に発見し得なかった。味のことばかりではない。まず見る目を喜ばせてくれる「料理の美」がまったく除去されていて、まことに寂しいかぎりであった。アメリカのように新しい国ではぜひもないが、仏・伊のごとき料理国がこれはなんとしたことだと驚くほど意外に感じたのである。しかし、なにかと飾り立てているようなものもないではないが、それが総じて稚拙であり、いわゆる児戯に等しいものであった。まことに意外であった。

出典 『フランス料理について』

僕が料理テストに歩いたところは、米・英・仏・独・伊であって、いずれも肉食国である。ところが、この肉食国に不思議にも日本のような良質の牛肉がないのである。ほとんど問題にならぬ悪質の牛肉が、欧米料理の素材として広く用いられている。これではうまい牛肉料理のできようはずがない。次に魚類がない。絶無ではないが、日本に比して百対一といえる程度。肉がなくて魚がない。それでいて工夫が稚拙、料理の美を知らない。行儀作法に欠けるボーイ、辛うじて料理はオリーブ油に助けられている始末である。

出典 『フランス料理について』

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