閲覧注意!!沖縄県民の行く末は中国人の食卓行き?!沖縄が中国に侵略されたらどうなるのか?

着々と進む沖縄の中国侵略、当の沖縄県民は親中派の玉城デニー氏を県知事に選び米軍基地を排除する方向へ民意を向けている。このまま沖縄が侵略された場合どうなるのか?

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因みに沖縄は698年には日本に属している

古代 『続日本紀』には、文武天皇2年(698年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士が南島(なんとう)(南西諸島)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は屋久島、種子島、奄美大島の朝貢関係を確認することにあり、文武天皇3年(699年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。これ以降、朝廷は種子島に国司を派遣するとともに、久米島や石垣島にも服属を求める使者を派遣している。和銅8年(715年)には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとある。他にも養老4年(720年)に南島人232人に位を授け、また神亀4年(727年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある。

琉球王国時代に編纂された「中山世鑑」によると、保元の乱で敗れ伊豆に流された源為朝が追手から逃れるため沖縄本島(運天港)に渡り、その子が初代琉球国王舜天になったとされており、正史として扱われている。

もしこのまま沖縄が侵略されたらどうなるのか?侵略されたチベット・ウイグル族の場合

チベット侵攻(チベットしんこう)とは、中国人民解放軍(中国共産党の軍隊)によるチベットへの侵攻をいう。侵攻は、

チベットの東北部・東部に対して(1948 - 1949)
中央チベットに対して(1950 - 1951)

の2段階に分類される。

中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に「西藏和平解放/བོད་ཞི་བས་བཅིངས་འགྲོལ」(シーツァンホーピンチエファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている[1]。

1.こじつけのような理由をつけて強引に侵略

毛沢東率いる中国共産党は国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、ガンデンポタンの勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中国政府は、ガンデンポタンの勢力圏への侵入に着手する。1950年1月1日に、中国国際放送(ラジオ北京)は「パンチェン・ラマ10世の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した[19]。サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言し、中国軍の侵攻は避けられないものとなった[20]。

1950~1976年の間の犠牲者数は、次のように推定されている[8][3]。

173,221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
156,758人が処刑死。
342,970人が餓死。
432,705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。
92,731人が拷問死。
9,002人が自殺。

以上、合計120万7387人[3]。ここには1980年代以降の犠牲者数は含まれない。

2.侵略直後から財力や権力を持っている者から粛清が始まり、民衆に対する弾圧が強まっていく

中国当局は、チベット人の一部を中国側に取り込んで、「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせ、またタムジン(闘争集会)という会合を開かせ、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には「罪」の自白を強要し、内容によっては処刑された。他の住民はタムジンにかけられている被告を罵倒しなければならず、それを行わない者は次のタムジンにかけられることになった[63]。

また、当時、中国政府は、中央チベットと中国とを結ぶ道路建設を盛んに行っていたが、チベット人労働者に対して当初は賃金が支払われていたが、1954年頃からは強制労働に変わっていた。チベット人労働者達は強制労働の後の夜、タムジンで共産主義教育を受けねばならなかった[

3.国際世論を見ながら弾圧と懐柔(見せかけ)を繰り返す

中国政府は独立運動には厳しい反面、「アメとムチ」の懐柔策でデモ封じ込めを図っている。例えば2008年のチベット動乱で暴動を防げなかった責任で、ジアンパ・ピンツオ主席は辞職し、その後継を元々「農奴」と呼ばれるチベットの最も低い階級に属していたチベット自治区東部出身のジアンパ・ピンツオを就任させた[70]。その動乱後に被害を受けたラサの住民を対象に、生活補助の支給や医療費の免除を実施し、僧侶らによる数百人規模のデモが2度発生した青海省黄南チベット族自治州では中心部の同仁県にあるチベット仏教寺院「隆務寺」に8日午後、製めん用の小麦を大量に積んだ5トントラックが到着した[71]。

中国は1989年から1994年にかけ、5500万元と大量の金や銀など貴重な物資を投じてポタラ宮の大規模な補修を行った。また中央人民政府は3億元余りを投じ、チベットの1400余りの寺院の修復、開放を支援した[72]。

中国は、チベット地区のGDPは2010年度に500.8億元(約600.8億円)に達し、年間成長率が12.4%.農民と牧民の納税後の年間収入が2005年度の2倍にあたる4,319元となったと主張している[73]が、中国がチベット自治区に2001年以降に投資した総額は3100億元にのぼる[74]。しかしこれらの投資は主に中国からの漢民族移民の為に使われ、チベット人に対してではなく、チベットにある企業の大部分の経営者は漢民族で占められ、雇用は不公平極まりないとチベット側は反論している[75]。経済学者アンドリュー・フィッシャーも中国によるチベット経済政策について、チベット族を疎外したものと分析している[76]。

5.弾圧などしていないと見せかけの実績を作り、多民族を臓器を売るための家畜にする

新疆ウイグル自治区では、ウイグル人が強制収容所に収監される事例が、数多く報告されています。



拘束されている人数は、100万人を超えるとも言われています。イスラム教を捨てさせるための教育や拷問が行われ、死者も数多くいると見られます。



6日に東京都内で開かれた講演会(明治大学現代中国研究所、アムネスティインターナショナル日本の共催)では、強制収容所から奇跡的に生還したウイグル人女性が、自らの体験について語りました。また、日本在住ウイグル人10人も初めて実名で登壇し、自身や家族に起きた出来事を話しました。

強制収容所から奇跡の帰還を果たしたウイグル人女性、メヒリグル・トゥルスンさん(29)が、あらかじめ録画したビデオを通じて自身の体験について証言しました。



メヒリグルさんは、数カ国語を話せる才媛で、以前は商社に勤務していました。エジプトに留学していたウイグル人と結婚し、三つ子を育てていました。



1回目の収容は、2015年5月。夫をエジプトに残したまま、里帰りのために降り立ったウルムチ空港で拘束され、生後45日の子供たちと引き離されました。

海外留学の理由などについて、3時間の尋問を受けた後、口をテープでふさがれ、手錠と足鎖をかけられて、刑務所に移されました。そこでは7日間、尋問を受けたといいます。その後、一般の強制収容所に移され、3カ月監禁されました。



メヒリグルさんによると、1回目の収容はその後に比べればましだったそうで、食事も中華まんやおかゆが与えられました。しかし、3カ月で体重が11キロ減ったといいます。



同年7月、3人の子供が重病になったため、メヒリグルさんは仮釈放され、警察に監視されながら、子供たちを診察した小児科病院に向かいました。そこで彼女が直面したのは、子供の死でした。



「子供たちはみな、首から右を手術されていました。そして一人の子が遺体で帰ってきました。手術をしたのは栄養を取らせるためだったと聞きましたが、どのような死因でなくなったのか、今も分かりません」(メヒリグルさん)

2回目の収容は、2017年4月。メヒリグルさんは2人の子供を育てるため、地元警察の許可を得た上で働いていました。ある日、公安部国内安全保衛局から「事務所に来るように」との電話があり、飛行機で急いで向かうと、その場で拘束されました。



3日間不眠不休で、「外国で誰と知り合いになったか」「ムスリムなのか」「礼拝をするのか」「なぜアラビア語を学んだのか」などについて、繰り返し尋問されました。ひどく殴られて、右耳が聞こえなくなったといいます。



「全身電気ショックも受けて、すごく痛かったです。思わず、『アッラーよ!』と叫んだところ、警察官に『お前のアッラーはどこにいる。もしアッラーがいるなら、お前を救ってみせればいい』と皮肉を言われ、気を失いました。その後、『私を殺してほしい』とお願いしましたが、『聞かれたことをすべて自白してからだ』と言われました」(メヒリグルさん)



収容所では、50人ほどの女性と同じ部屋で生活しました。習近平国家主席の長生きを祈り、中国共産党を信仰の対象にするよう指導され、中国語を学んだといいます。人の入れ替わりは頻繁で、メヒリグルさんは3カ月間、計68人の女性と過ごしました。その間、9人の女性が亡くなったと語ります。



「十分な食事もなく、睡眠不足で、シャワーも浴びることができません。常に4つの監視カメラで監視されています。また部屋の隅にある小さな穴をトイレ代わりに使い、全員に丸見えの状態です。部屋が狭いので一度に寝ることができず、2時間ごとに交代で眠ります。全員の女性の手足が腫れていました。これは、注射や薬を投与されたためです。注射をされると、全身がだるくなり、記憶も失います」(メヒリグルさん)

8月、精神的に病んでしまったメヒリグルさんは、精神病院に入院しました。実家に帰されて通院することになりましたが、政府職員2人が24時間、監視しています。家族の会話も聞かれるため、メヒリグルさんは家族に収容所での体験を何1つ話せなかったといいます

3回目の収容は、2018年1月。メヒリグルさんは「無期懲役か、死刑」だと宣告され、連行されました。無期懲役・死刑の囚人服であるオレンジ色の制服を着せられ、尋問や拷問を受けたといいます。そして「お前は間もなく死ぬから、子供たちに残したいメッセージを書け」と紙とペンを渡されました。



メヒリグルさんは、警察官に「2人の子供はエジプトの国籍を持っているから、エジプトで問題になるだろう」と話しました。すると、エジプト政府に子供のことが伝わり、エジプト政府職員がメヒリグルさんの面会にやって来ました。同政府の働きかけのおかげで、メヒリグルさんは2カ月以内に戻ることを条件に、幼い子供をエジプトに連れて行くことが許されたのです。



しかし、メヒリグルさんの一族26人は拘束されており、警察は「2カ月以内に帰ってくれば、家族は解放してやる。お前が世界中どこにいても、捕まえられる」と脅してきました。メヒリグルさんも帰国するつもりでした。

メヒリグルさんは3回搭乗拒否されながら、なんとかエジプトに到着しました。そして生き別れていた夫は、2016年にメヒリグルさんの後を追ってウイグルに入国して拘束され、懲役16年の刑に処せられたことが分かりました。



その後、中国当局から電話があり、メヒリグルさんは家族と会話しました。しかし、悩みに悩んだ末、「残虐なことが祖国で起きていると世界の人に知らせなければならない。この問題と向き合わなければ、良心が許せない」と帰国しないことを決意したのです。

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