中国当局は、チベット人の一部を中国側に取り込んで、「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせ、またタムジン(闘争集会)という会合を開かせ、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には「罪」の自白を強要し、内容によっては処刑された。他の住民はタムジンにかけられている被告を罵倒しなければならず、それを行わない者は次のタムジンにかけられることになった[63]。
また、当時、中国政府は、中央チベットと中国とを結ぶ道路建設を盛んに行っていたが、チベット人労働者に対して当初は賃金が支払われていたが、1954年頃からは強制労働に変わっていた。チベット人労働者達は強制労働の後の夜、タムジンで共産主義教育を受けねばならなかった[