【石破茂の勘違い】北方領土「2島返還」「2島+α」「4島一括返還」時系列で追ってみた!

石破茂は、日ソ共同宣言 安倍晋三首相がロシアとの北方領土交渉をめぐり事実上「2島先行返還」に進もうとした場面において、「小さな領土を一つでも失うと、やがて領土を全て失う」とし、4島返還の原則から後退しないよう訴えた。
「2島返還」「2島+α(プラスアルファ)」「4島一括返還」の議論は、何が前進で、何が後退なのだろうか?時系列で追ってみると、石破の勘違いポイントが見えてきた。

もんろううぉーく さん

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まず「2島+α」のα(アルファ)とは何を指しているのか?

 日本とロシアの平和条約締結交渉をめぐり、北方領土問題の解決策として取り沙汰される「2島+α(プラスアルファ)」論。歯舞群島と色丹島の返還に加え、残る国後、択捉2島で何らかの譲歩を引き出して条約を結ぶとの議論が、1960年ごろにも日本国内にあったことが、19日公開の外交文書で分かった。(国名、肩書は当時)

2島とは、歯舞群島と色丹島の返還を指している。これに対しての+α論が1960年ごろには存在していた。

石破氏の言うように「2島+α」は、突然起こったものなのだろうか。

では「2島返還」「2島+α」「4島一括返還」というワードが登場する過程を時系列にみてみよう。

(1956年)日ソ共同宣言

歯舞群島及び色丹島を除いては、領土問題につき日ソ間で意見が一致する見通しが立たず。そこで、平和条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めた日ソ共同宣言に署名した。
→平和条約締結交渉の継続に同意した。
→歯舞群島及び色丹島については、平和条約の締結後、日本に引き渡すことにつき同意した。

これ以前の1951年に、サンフランシスコ平和条約にて、日本は、千島列島と南樺太に対する全ての権利・権限・請求権を放棄。

ソ連は、この条約に署名しなかったため、条約当事国とならなかった。そのため、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めて、日ソ間で執り行われたのが日ソ共同宣言。

ここでは平和条約締結後に、日本に引き渡される島は、歯舞・色丹の2島のみであった。

日ソ共同宣言後の日ソ交渉

(1)ソ連は、1960年、対日覚書を発出し、日ソ共同宣言で合意された歯舞群島及び色丹島の引渡しについて、日本領土からの全外国軍隊の撤退という全く新たな条件を課すことを一方的に声明した。これに対し、我が国は、対ソ覚書により、国際約束である日ソ共同宣言の内容を一方的に変更することはできない旨反論した。
(2)田中総理訪ソ(1973年)
日ソ共同声明において、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記された。
→ブレジネフ書記長は、北方四島の問題が戦後未解決の諸問題の中に含まれることを口頭で確認。
(3)それにもかかわらず、その後ソ連は長い間「領土問題は存在しない」との態度。

ここで問題となったのが、当時の東西冷戦。 日本の領土には、在日米軍が存在していた。当時、米国と敵対していたソ連は、日本に返還するということ=アメリカの基地が設置される危険性があると恐怖した。

そのため、日本から在日米軍の撤退を要求してきたのである。こうした米ソの関係が、領土問題を混乱へと導いていったのである。

(1991年4月)ゴルバチョフ大統領の訪日

日ソ共同声明において、ソ連側は、四島の名前を具体的に書き、領土画定の問題の存在を初めて文書で認めた。

(1993年10月)エリツィン大統領の訪日/東京宣言

(1)東京宣言(第2項)において、
(イ)領土問題を、北方四島の帰属に関する問題であると位置付け、
(ロ)四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常化するとの手順を明確化し、
(ハ)領土問題を、1)歴史的・法的事実に立脚し、2)両国の間で合意の上作成
された諸文書、及び、3)法と正義の原則を基礎として解決する、との明確な交渉指針を示した。
(2)また、東京宣言は、日本とソ連との間のすべての条約その他の国際約束が
ロシアとの間で引き続き適用されることを確認した。
(エリツィン大統領は記者会見で、日露間で有効な国際約束に1956年の日ソ共同宣言も含まれると発言。)

4島一括返還論者は、東京宣言を取り上げるが、東京宣言では「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。」と、交渉の段階で、帰属させるとは明記されていない。

エリツィン大統領は、記者会見で「日露間で有効な国際約束に1956年の日ソ共同宣言も含まれる」と発言。

つまり、石破氏を含む4島一括返還論者は、東京宣言を根拠にしているが、完全に勇み足をしている!

ロシアの中で、東京宣言は、4島帰属の"検討と協議”を進めることの宣言であって、ロシアの中で有効な約束は、日ソ共同宣言なのだ。

(1997年11月)クラスノヤルスク首脳会談

「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす。」

(1998年4月)川奈首脳会談

川奈合意
「平和条約が、東京宣言第2項に基づき四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けての日露の友好協力に関する原則等を盛り込むものとなるべきこと。」

(1998年11月)小渕総理の訪露

モスクワ宣言において、
-東京宣言、クラスノヤルスク合意及び川奈合意を再確認。
-国境画定委員会及び共同経済活動委員会の設置を指示。

(2000年9月)プーチン大統領の訪日

(1)「平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」において、
-クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続することを確認。
-これまでのすべての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決する ことにより平和条約を策定するため交渉を継続することを確認。
(2)プーチン大統領が「56年宣言は有効であると考える」と発言した。
(3)プーチン大統領は、川奈提案は、日本側の「勇気と熟慮の成果」であったとしながらも、「妥協についての我々の考え方と完全には一致していない」として拒否した。

この年の3月にプーチン大統領が誕生。 領土問題に対して、ロシアの主張は曲げない態度をとっていた。

(2001年3月)イルクーツク首脳会談

イルクーツク声明において、
(1)56年日ソ共同宣言を交渉プロセスの出発点と位置づけ、その法的有効性を文書で確認した。
(2)その上で、東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するとの日露共通の認識を再確認した。