斉藤誠司とは?海外プロサッカー選手の人生
海外10ヵ国のプロサッカーリーグで活躍した斉藤誠司。日本時代は柏レイソルに所属、各年代別の日本代表でプレーした(ヤフーニュース、スポナビ記事からの引用)
海外で活躍する日本人プロサッカー選手「斉藤誠司」
投稿者:fourfourtwobrazil株式会社
FOURFOURTWO BRAZIL株式会社です。第1回目は斉藤誠司選手の物語についてインタビューしていきたいと思います。
【プロフィール】
埼玉県さいたま市出身である。日本時代は柏レイソルに所属でユース日本代表選手でもある。16歳で単身ブラジルに渡り18歳でプロ契約を結び海外で10ヵ国のプロサッカーリーグで活躍する。
【—なぜ、ブラジルへ行こうと思ったのですか?】
三浦知良選手が大好きだったからです。カズ選手も15歳でブラジルに行きプロ契約を結び、その後は色々な国でサッカーをしていましたしサッカー選手としても人間としても凄く憧れていた人でした。
【—16歳で単身ブラジルに1人で行き不安や周りからの反対はなかったのですか?】
もちろんみんな最初は反対していましたね。でも父と当時担任の上杉先生と田口監督だけは賛成してくれました。人生1度きりだし自分の人生なので、夢を本気で叶えたいなら頑張って来いと言われました。でもやるからには最後まで諦めないで責任を持ってやりなさいと父との約束でした。母は猛反対でしたね。最低限、大学を卒業してから行ってくれと言われました。でも短いサッカー選手人生から逆算すると、大学を卒業して22歳で海外に行っても遅いし若い時に行くから意味があるんだと、僕はサッカーの世界で生きていきたいんだと1ヵ月間くらい説得をしました。それで高校は通信制に転校して、母とは高校だけはどんな形でも卒業するとの約束で納得してくれました。
不安はまだ16歳で若かったせいか全然なかったです。日本でも柏レイソルで全国大会3位にもなりましたし、ユース日本代表にも選ばれて自信だけはありました。でもここだけの話、中学生の時に柏レイソルのセレクションを受け不合格になったんです。でも悔しくて悔しくて納得が出来ず、当時3歳からの幼馴染だった菅沼実君(現ロアッソ熊本所属)がレイソルに在籍していたので、お願いをして2人でレイソルの事務所に行き、もう1度チャンスをくださいと頭を下げ頼みに行ったんです。そしたら次の日から練習参加してくれと言われて、1ヵ月後には合格しました。その後は個人として半年で全国大会3位になり、ユース日本代表にも選ばれてサッカー人生が180度変わりました。もともと市選抜や県選抜にも選ばれなかった選手だったので。自分にとってはその経験が凄く自信に繋がりました。当時13歳でしたが諦めなければ絶対に夢や目標は叶うと思いました。
—【ブラジルに行きプロになるまでの道のりを教えてください】
まずは代理人を経由して世界大会でも優勝経験のあるサンパウロFCにテスト生として1ヵ月参加しました。最初は言葉、文化、サッカーのレベルが全然違くて凄く苦労しました。日本の同年代では負けていないとは思っていたんですが、ブラジルでは僕が1番下手でした。同年代でこんなにレベルの高い選手がいて、みんなまだ若いのに人生を賭けて命がけでプロサッカー選手になろうとしていたし、練習もみんな試合に出る為に削りあいで毎日のように怪我人も出ていました。最初はチームメイトからも受け入れてもらえなく、パスも出てこないし会話もしてくれなかったです。監督からも最初は日本人は本当にサッカー出来るのか?ブラジルに遊びに来たのか?と馬鹿にされていました。。それが凄く凄く悔しくて練習後はみんなに早く追いつけるように、毎日自主練習と夜はジムで筋トレをして体を鍛えていました。
日常生活でも苦労しました。レストランでご飯食べる時も言葉が理解出来ないし、友達が出来ても会話が出来ないし最初の1年は地獄のような生活でした。正直言うと1週間で日本に帰りたかったです、父に毎晩電話してもう日本に帰りたいと話しましたが、父と母は猛反対でした。「自分が決めた道なんだからプロになるまで日本には帰れない。日本に帰ってきたいなら自分で帰りのチケットを稼いで戻ってきなさい、誰もお前の事は助けてくれない」と言われ電話を切られました。当時は16歳でお金も持っていなかったので、先が真っ暗でしたが、でも後から聞いた話だと母は凄く心配していて泣いていたようです。半年間サンパウロFCで練習生としてテストを受け、ようやく実力が認められて合格できたんです。でもその時は自分の実力より、当時お世話になった代理人のマネージメントが良かったからかもしれません。やはりサンパウロFCは世界でも有名なクラブですし、なかなか試合にも出れませんでした。18歳でプロ契約を結ぶ事が出来て、代理人と相談をして試合経験を積む為にレンタル移籍でブラジル国内の色々なプロチームで5年間プレーさせて頂きました。
—【ヨーロッパのチームに移籍した道のりを教えてください】
ブラジルで5年間プロとしてプレーしていたんですが、当時お世話になっていた代理人を通じて複数の日本のチームとヨーロッパのチームから移籍のお話を頂いていました。もちろん日本でのチャレンジを考えていたのですが、代理人と相談をして、もしこれから長くプロサッカー選手として生きていきたいならヨーロッパに拠点を置いて海外でプレーした方が良いと言われたんです。僕もマネージメントに関してはあまり詳しくなかったので代理人を信頼してポルトガルのチームに移籍しました。ポルトガルはブラジルと同じ言語であるポルトガル語を使うのでコミュニケーションについては全然問題なかったですが、サッカーのスタイルが南米とヨーロッパでは全然違いますので、その速さに慣れるのが大変でした。その後はポーランド、シンガポール、インド、インドネシア、ラトビア、バーレーンなどの1部プロリーグでプレーさせて頂きました。海外遠征やキャンプ、トライアウトなどを合わせると30ヵ国以上の国でサッカーをしています。もし日本でプレーしていたらもう引退をしていたかもしれません。今は代理人に感謝しています。
—【2016年に中東チームに移籍した道のりを教えてください。現地の新聞記事やネットニュースでは年俸3500万円+2年契約と報道されていますが、中東での外国人に対する契約内容やサッカーのレベルはどうなんですか?】
当時はラトビアのチームに所属をしていたのですが、日本にいる父親が重度の脳梗塞になってしまい手術をする事になったんです。自分はアウェー試合の為に地方に前泊をしていたのですが、日本にいる妹から国際電話がありまして、父が倒れたから今から手術をすると言われ、医師からはとても危ない状況なので最悪の事も考えてくださいとの事でした。試合のメンバーにも選ばれていましたし、チームにも迷惑はかけたくなかったので何も言わずに試合には出場しました。そして試合後にすぐにタクシーを呼んで空港まで行き急遽日本に帰国して、そのまま父のいる病院に向かいました。病院に着くと今まで見た事のない父の弱った姿を見て、涙が止まらなかったですね。母も家族もみんなかなり弱っていましたし、その時に自分も色々と考えさせられ今は日本の家族の近くにいた方が良いと思って、ラトビアチームの社長に直接連絡をして退団したいと伝えたんです。
自分の中ではもうサッカー選手は引退してずっと家族の近くにいようと決めました。これが日本のチームでプレーしていたら話は変わりますが、遠く離れた海外だったし、16歳から親元を離れてずっと海外にいたので、今までも家族との時間があまりなかったんです。でも後悔がないと言ったら嘘になりますが、自分にとってサッカーより家族が1番大事ですし、両親が産んでくれてここまで育ててくれたから、今の自分があると思うんです。日本に帰国してからは毎日のように自宅と病院の往復でした。病院の先生からは、またいつ悪化するか分からないので、覚悟をしといてくださいとも言われてましたし長男である僕が今は家族を支えて、父の近くにいてあげないといけないと思いました。他にも色々と大変でしたが、家族みんなで力を合わせて乗り越えられたとは思います。父も車イス生活ですが少しずつ回復してきていますし、改めて家族の大切さと母の強さを実感しました。
父と会話が出来るようになってきた頃に最初に言われた事が「お前はなんで日本にいるんだ?父はもう大丈夫だから早くチームに戻ってサッカーをしてきないさい。」との言葉でした。その頃はサッカーの事は思い出したくなかったので関係者とは一切連絡も取っていなかったんですが、心配してくれた代理人が海外から日本まできてくれたんです。そこで色々と説得をされまして、東南アジアにある短期のトーナメント戦に3ヶ月間だけプロ契約を結びプレーしてコンディションを戻しながら夏の移籍に向けて準備をして行きました。代理人からは絶対に夏の移籍マーケットで新しいチームを探すから信じてついて来てほしいと言われました。それで中東にあるチームに移籍したのが今までの道のりになります。
中東のレベルはヨーロッパや南米に比べると低いですが1チームに外国人が契約できる人数が4人までなので、その4枠を世界の選手達と争わないといけません。リーグのレベルが低くても外国人枠は凄くレベルが高いと思います。元代表選手やヨーロッパ、南米の強豪国でプレーしていた選手も多いです。契約の内容はチームや各外国人選手によって全然違うと思います。ですが給料の他にも往復航空券+車+マンション+食事+家政婦さんなども提供されるので、生活するには凄く魅力的な環境だと思います。
—【斉藤選手は3年前から副業でブラジルで子供達に向けたサッカースクールとチームを立ち上げたそうですが詳しく教えてください。講演会もしているようですが、子供達にどんな事を伝えているんですか?】
副業だとは考えていません。。選手と同じくらい本気で考えていますし、副業でやっていたら子供達に失礼だと思います。
ブラジルにも8年間くらいいましたし、その中で色々な人脈も出来たのが大きく、色々な人が協力してくれました。引退してからでも遅くはなかったのですが、現役選手の時だからこそ、子供達に教えられる事、伝えられる事があると思うんです。
オフ期間の時は講演会も日本やブラジルの子供達に向けてしていますが、周りからはそのような活動は引退してからしたら?と良く言われるんですが、でも先程お話しをしたように現役選手の時だからこそ子供達に伝えられる事がたくさんあると思うんです。講演会の時はあまりサッカーのお話はしないですね。僕も海外生活が今年で15年目になり色々な国にも行き、たくさんの子供達と触れ合ってきました。海外だと日本のように恵まれた国は少なく、毎日生活するのに必死ですし、仕事をしたくても仕事がなかったり、給料が未払いになったり、他にも大変な事がたくさんあります。子供達もボロボロの洋服を着て、好きな食べ物も食べれなかったり、好きな物を買えなかったり、寝る場所がなかったり、親がいなかったり、サッカーをしたくてもスパイクが買えなくて裸足で子供達がサッカーをする光景もたくさん見てきました。それでもみんな笑顔で幸せそうな顔でサッカーをしていましたし、みんな夢や希望を持って生きていました。自分の父も病気になり車イス生活で大変ですが、病気になっても夢や希望を持ち毎日必死でリハビリを頑張っています。周りの患者さん達とも仲良くして頂きお話をする機会がたくさんありましたが、父と同じく病気になっても夢と希望を持ち必死でリハビリや治療をしていました。
僕も若く海外に来てからは楽しい事より、辛い大変だった事が多かったです。膝の大怪我をして手術をしてサッカーが出来ない期間もありましたし、何度も挫折をして日本に帰ろうと思いましたし自信もなくなりました。イジメや差別にもたくさんあってきましたが、でもそんな人生どん底の中でも夢や希望があったからこそ乗り越えられてきたと思います。だから、これからも子供達には「夢の大切さ」を伝えていきたいです。もし夢が叶わなくても、夢や希望を持つ事によって乗り越えられる事がたくさんあると思うんです。夢を叶えるより、どんな時でも夢や希望を持つ事、その夢と目標までの流れの期間をどれだけ自分の事を信じてあげられる事の方が凄く大事だと思うんです。
—【今年で海外に拠点を移してから15年目になり、プロサッカー選手現役生活も12年目になりますが、今後の目標を聞かせてください】
残りのサッカー選手としての人生は決して長くないと思いますが、自分の身体とメンタルが持つ限り頑張って行きたいと思います。ですがサッカー選手としての引退はいつかはあると思いますが、これから先の人生を生きていく中で人間としての「人生の引退」はないと思うので、どんな時も諦めず「自分はどう生きたいのか?どんな人間になりたいのか?」自分と日々向き合いながらサッカーの世界で頑張って行きたいと思います。そして今まで応援してくれ支えてくれた家族やサッカー関係者様、仲間達には本当に感謝しています。
【—ブラジルでのプロデビュー戦について聞かせてください】
当時僕がプロ1年目(18歳)の時で初めてプロ選手としてのデビュー戦だったんですが、後半途中からの出場で自分の調子も悪く、僕のミスからの失点でチームも逆転負けをしてしまったんです。カップ戦のダービーマッチだったので、スタジアムにはたくさんの観客がいました。チームは2連敗中だったので次の試合も負ければ監督はクビになるとも報道されていて、その状況で僕を信頼してくれ試合に使ってくれましたが、僕のミスで負けてしまい、監督も次の日にクビになりました。
監督には家族がいて2人の小さい子供達もいたのですが、僕のせいで監督と家族の人生を狂わせてしまいました。僕も試合後には観客席から「日本人のサッカー下手くそ?早く日本に帰れ?給料泥棒?日本人もクビにしろ?寿司でも握ってろ?」などかなりの人数から大声で言われましたが、何よりその時は監督に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。最後に監督から言われた言葉が「プロの世界は結果が全て。今日の試合で理解できただろ?だからお前はこの世界で最後まで生き残れ」と。。。この時に監督、選手それぞれ色々な物を背負ってサッカー(仕事)をしている、もっと自分に責任を持って毎日生きていかないと肌で感じ経験しました。
【—ブラジルでの恩人とは誰の事ですか?】
僕が18歳の時に出会った日系ブラジル人の「スミエさん」と言う女性の方です。もう10年以上のお付き合いになりますが本当に尊敬する女性(母)です。話は戻りますが、監督交代で新しい監督が来てからは、なかなか試合に出るチャンスがなく、正直自分の実力に限界を感じていました。チームのサポーター、チームメイト、スタッフからも信頼をなくして、自分の居場所がなかったです。チームの社長からも、このままだと次の契約更新は難しいから、日本に帰国する準備をしといてくれと言われていました。全部自分の実力と結果の責任なんですが当時まだ18歳だった僕は毎日現実から逃げる事しか考えていませんでした。
- 1
- 2