一口にサイコパスといってもその行動パターンには個人差がありますが、サイコパスが他人を利用するためによく使う手段の一つが「可哀相な人のふり」をする事です。
【誓約書】 二木悠樹。彼氏と同棲。
誓約書2
私二木悠樹は
土田恵美子
小堀薫
前田智子
平崎亜紀子
以上四名の女性と
交際
同棲
結婚
を一生涯しない事を誓います。
もし破った場合は現金500万を
に支払う事を誓います
平成21年 4月20日
二木悠樹 捺印
ばうむくーへん さん
善良な心を持っている多くの人達は、「この人は可哀相だ」と感じた相手に対して同情し、その人に何か悪いところがあったとしても、強く追求することをためらうようになります。
そしてその同情を引くために、涙は強力な武器になるでしょう。
学校や職場などで、何かミスをしたりルールを守らなかった人が注意されるシーンを思い返して(あるいは想像して)みて下さい。
注意されている人がムスッとしていたり反抗的な態度を取っているうちは誰もがその人を攻めていても、その人が泣き出した途端に状況は一変するという光景は珍しくありません。
「あ、いや、分かればいいんだよ。今度からは気をつけて・・・」と”審判の場”がお開きになったり、場合によっては「あそこまで言わなくても・・・」と注意をしている人の方が加害者と見なされてしまったりすることはよくあるのではないでしょうか?
サイコパスは人が涙に同情的であることを、とてもよく知っています。
だから、嘘がバレそうになったとき、自分の悪事が明らかになってその責任が追求された時などには、ひたすら空涙を流してその場を切り抜けようとするのです。
ある文献の中では、サイコパスの性質をよく表したエピソードの一つとしてこんな話が紹介されていました。
囚人として暮らしているサイコパスに、
「今、最も欲しい物は何だい?」
と尋ねたら、そのサイコパスは、
「同情だね。人に哀れんでもらうようになりたいよ」
と答えたというのです。
サイコパスたちは、良心をもつ人々自分に抱く同情をとことん利用しようと考えています。
特にヒモとして暮らしたり、生活を家族に依存するタイプの寄生虫型サイコパスなどは、人の同情無しには生きていけない存在とも言えるかも知れません。
連続殺人鬼テッド・バンディーが、怪我をしている訳でもないのに松葉杖を持ち歩いて、手助けをしようとする被害者に近づいたという話は有名です。
「困っている人を見ると放っておけない」というタイプの人は、相手が本当に同情すべきかどうかを見極めないと、後々後悔することになるかも知れません。
サイコパスは単に愛情や良心を持たないというだけでなく、あらゆる面において感情が希薄で表面的であるという特徴を持っています。
人の言葉というのは、心ろの深い部分にある感情と、それをコントロールする理性の両方によって紡ぎ出されるものです。
しかしサイコパスの場合は愛情や良心、そしてそれによって生まれる他人との絆というようなものを本質的には理解することが出来ません。
サイコパスが人間社会で正体を隠して生きていくためには
「この場面ではこの言葉が適当」
という風に、善良な人達の行動を真似て話すしかありません。
つまり、役者が演技をするのと同じようなものです。
だからサイコパスが発する
「可愛い」「愛おしい」「愛してる」「心が張り裂けそうだ」「緊張で口の中がカラカラだ」
という感情を表す言葉は、本当の感情を伴わない表面的なものです。
彼らが本当にその感覚を味わってそれを言葉にしているのではなく、周りの人を観察することによって得た経験から言葉を選んでいるに過ぎません。
これらは完全な嘘とは少し意味が違うかも知れませんが、少なくともその言葉の内容から本人の考えている事や、行動を理解する裏付けにならないことは確かです。
「生まれながらの悪魔?」のページでは、サイコパスの脳が人の感情に訴えかけるような言葉に対しても、無機質な言葉と同じようにしか反応しない特徴があるということを書きました。
そして全てを無機質に感じるという特徴は、単に言葉の上の問題ではなく、サイコパスの思考全体に対して言えることです。
例えば家族や恋人、友人という存在も彼らにとっては服や車や時計などと同じ。
多少の執着を持つことはあっても、それ以上の感情を持つことはありません。
考えてみれば、サイコパスには愛情が無いのですから、思いやりを持つことなどあるわけが無いのです。
だからサイコパスは自分が執着している相手、例えば異性や家族などに強く執着しているように見えても、ちょっとしたことで簡単に興味を失い、関心を持たなくなります。
外見を気に入っている異性の顔に傷やニキビなどが出来たり、生活を支えてくれていた身内がその●●を打ち切ったりすれば、サイコパスにとってその人たちは「動かなくなった時計」や「走らなくなった車」と同じくらいの価値しか無いからです。
誰かと一緒に仕事をしていたりすると、「自分の方が上だ」ということを証明しようとして相手を打ち負かそうとする競争心が生まれることがあります。
常日頃から刺激に飢えているサイコパスは、人の競争心を煽り、なんとか「支配ゲーム」に参加させようとするのが得意です。
インターネットの世界では、不毛な議論や罵倒の応酬の場に相手を引き出すために、人の反感を買うような言葉を意図的に掲示板などに書き込む「釣り」という行為がありますが、サイコパスの行動もこれと似たようなものです。
相手の言葉や行動が許せないと思っても、それに反発させる事こそが相手の狙いなのですから、決して挑発には乗らないようにしましょう。
状況によっては力比べでサイコパスを打ち負かしたり、関わりを持つことでその行動パターンをより深く分析することができるようになるかも知れません。
しかし、もしもサイコパスがあなたに悪意を持ったり、あるいは冷静に「排除」しようとしたなら、それはあなたが想像もし得ないルール無用の手段になる可能性が大いにあります。
極端に言えば、ちょっと口論になったからというだけの理由で、いきなり後ろからナイフで刺される可能性も無いとは言えないのです。
そしてサイコパスの本質は、どんなにあなたが権力を振りかざしても、愛情を持って接しても、腕力で押さえつけても治ることはありません。
サイコパスの行動を正そうとすることは、言ってみればネズミに空を飛ぶ方法を教えようとするのと同じでまさに徒労。全てが不毛な努力になってしまいます。
しかも、場合によっては逆恨みされる危険もあるわけですから、相手がサイコパスかも知れないときは何と言っても「関わらない」のが最良の選択肢だと言えるでしょう。
サイコパスの正体を見破ることはそれほど簡単ではありません。別の言い方をすれば、どんな場所、あるいはどんな職業にでも、サイコパスの性質を持った人物が紛れ込んでいる可能性があるということです。
全ての人間関係において言えるという訳ではありませんが、ほとんどの人は誰かと接するときに、相手の肩書きを意識しているはずです。
例えば、「あなたは内臓の機能が低下しているようですね」ということを、何の知識もない同僚に言われるのと、内科の医者に言われるのでは、(医者が実際にそういう表現をするかどうかは別として)その言葉の受け取り方は大きく異なるでしょう。
また、相手の肩書きがどこかの教育機関の要職だったり、慈善事業を運営している有名な人物だったりすれば、多くの人は多少なりとも「清く正しい人物像」をイメージして接すると思います。
しかし、社会的に信用されるに値すると思われているような肩書きを持っているからといって、その人物がサイコパスではないという保証はありません。
いや、むしろ有能なサイコパスであれば、自分の本性を隠して人に影響力を発揮出来るような肩書きを手に入れているかもしれません。
実際に「良心のない人たち」の中では、精神科医として働いていたサイコパス(実際は無免許)だった人物の例も紹介されています。
また、サイコパスでなかったとしても、立派な肩書きを持つ人物が善人でない可能性は十分にあるわけです。
肩書きが全く人を判断する材料にならないとは言いませんが、肩書きに惑わされて
「あの人が言うんだから間違いない」
というような先入観を持つと、被害者になる危険性は高くなると考えられます。
人は他人の言動を、無意識のうちに観察しているものです。
笑顔を見せて立派なことを話していても「何かがおかしい」と感じるような場合、それは潜在意識からの警告かもしれません。
だから、もしも人と接していて何らかの違和感を感じたときは、自分の直感を信じて心のどこかに警戒心を残しておいた方が良いでしょう。
それが取り越し苦労だったとしても、悪意の被害者になるよりはずっとマシなはずです。
ナルシストというと自分に酔うタイプの人物、あるいは自信満々な人物をイメージするかも知れませんが、ここでいうナルシストというのは身近に存在するような「自分大好き」人間ではありません。
極度のナルシストは、サイコパスと同じように、他人に対して愛情を抱くことができません。
周囲の注目を得ようと行動することはありますが、それはあくまでも自己愛を満たすための行動です。
極度のナルシストは、サイコパスと同じように、他人に対して愛情を抱くことができない
自慢話が大好きで、とにかく好都合なことは自分のおかげ、不都合なことは全て他人が悪いという考え方をします。
他人に感情移入することができないので思いやりも無く、他人から見て感情の浅い人物に見えるという点でも、サイコパスに近い存在と言えるかも知れません。
ナルシストにとっても自分以外の人間は、自分を賞賛し、もてはやすために居ればいいだけの「物」のような存在です。
「良心のない人たち」の中でマーサ・スタウト氏は、ナルシストを「サイコパスを半分にしたような」存在だと言っています。
簡潔に書くと、
・ 善良な(普通の)人々・・・自分にも他人にも愛情を抱く
・ 極度のナルシスト・・・自分にしか愛情を抱かない
・ サイコパス・・・自分を含め、誰にも愛情を抱かない
という区分になります。
ナルシストはサイコパスと違って、適切な治療を受けることにより治る見込みがあるとされていますが、周りの人間にしてみれば迷惑な存在であることは間違いありません。
そういう意味では、当サイトで定義するデミ・サイコパスの範ちゅうに入る存在と言えるでしょう。
他人に対しての配慮が極端に欠けている人物に出会ったとしたら、それがナルシストであれサイコパスであれ、関わらないに越したことはありません。
ただし、サイコパシーと違ってナルシシズムは、無意識の葛藤によって本人が苦痛を感じるという特徴があります。
もしも身近な人がナルシシズムを抱えて苦しんでいたら、専門家に相談することで状況を改善できるかも知れません。
サイコパスに関する文献をご紹介します。 良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖 Martha Stout (原著), 木村 博江 (翻訳)