御嶽山 噴火(長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり)

御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。

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御嶽山の環境

標高3,000 mを越える高山であり、木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」と歌われている。1979年の噴火による荒廃で黒沢口登山道九合目の石室山荘周辺のハイマツが枯れたが、2002-2003年頃から若芽が確認されている。御嶽山のコマクサの昔話がある。王滝口登山道にある田の原天然公園を中心に約830 haが、木曽御岳自然休養林に指定されている。田中澄江は、『花の百名山』著書で代表する花に一つとしてリンネソウを紹介した。標高1,500m以下の山麓では、ヒノキ、アスナロなどの木曽五木が見られる。1836年(天保7年)に西山麓の下呂市小坂町赤沼田で植栽されたヒノキの人工林が、1993年(平成5年)に林野庁により「赤沼田天保ヒノキ植物群落保護林」の指定を受けた。木曽町三岳では「御嶽黒光真石」と呼ばれる安山岩が産出され、御嶽信仰の霊神碑にも利用されていた。現在も麓の田中石材店などで石材加工が行われている。

木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御岳山や、単に御岳と表記されることもある。標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である[注釈 1]。山頂には一等三角点(3,063.41 m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。

古くから信仰の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、伊那節では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。東海地方特に尾張地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望めることから、「木曽のおんたけさん」として郷土富士のように親しまれている山である。日本百名山、新日本百名山、花の百名山、ぎふ百山のひとつに選定されている。旧開田村を代表する山として飛騨頂上、旧三岳村を代表する山として剣ヶ峰が「信州ふるさと120山」のひとつに選定されている。1927年(昭和2年)に、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社などにより日本二十五勝のひとつに選定されている。

国立公園に指定されている飛騨山脈や赤石山脈と異なり、木曽山脈とともに国定公園にさえも指定されていない。長野県の御岳県立自然公園および岐阜県の御嶽山県立自然公園には指定されているものの、国立・国定公園に指定されなかったのは、木曽ヒノキを主とする林業の盛んな地域であるという事情がある。山腹は深い森で覆われ多くの滝があり、木曽川水系の源流部の山であり、その下流部である中京圏の水がめとなっている。

以前は死火山や休火山であると思われていた山であるが、1979年(昭和54年)10月28日に突如噴火した。気象庁は2008年(平成20年)3月31日に噴火警戒レベル1(平常)と噴火予報を発表した。2014年(平成26年)9月27日に噴火、南側斜面を噴煙が流れ下り、噴火警戒レベルが3に引き上げられた。

遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった[注釈 2]。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。

日本では富士山に次いで2番目に標高が高い火山である[注釈 3]。剣ヶ峰を主峰にして、摩利支天山(2,959.2 m) 、継子岳(2,858.9 m) 、継母岳(2,867 m) などの外輪山があり、南北約3.5 kmの山頂部による台形の山容である。北端の継子岳は比較的新しい山体の成層火山で、北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、郷土富士として「日和田富士」とも呼ばれている。なお、長野県側に寄生火山として三笠山(2,256 m)、小三笠山(2,029 m)がある。最高点の剣ヶ峰は長野県に位置し、王滝口登山道の外輪山との合流部が「王滝頂上」(標高点2,936 m)、小坂口との合流部が「飛騨頂上」(標高2,811 m)である。火山灰の堆積した裾野は広く、長野県側の麓の傾斜地では濃い色の火山灰が耕地を覆っていて、高地の開田高原は蕎麦の産地として知られている。岐阜県側の地形は長野県側と比較して複雑で、平坦地が少なく、尾根筋が屈曲している。2007年(平成19年)5月10日に、日本の地質百選選定委員会により「日本の地質百選」の第1期選定(全国83箇所)のひとつに選定された。

御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている。

従来、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われる可能性が指摘されている。

1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている。気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置されている。2001年から名古屋大学大学院環境学研究科が、「岐阜・長野両県における火山噴火警戒避難対策事業」として噴火の前兆現象を観測する地震計による御岳火山災害観測を行っている。1979年の水蒸気爆発の6ヶ月前の三ノ池が白濁し池の中から泡が噴き出す音が発生した現象と6時間前の火口直下での地震は、その前兆現象であったとみられている。2011年(平成23年)7月27日に「御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会」が開催され、御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画が策定された。王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがある。
活火山の定義を見直すきっかけとなった有史以来の1979年の水蒸気爆発

長らく死火山だと思われてきたが、1968年(昭和43年)から活発な噴気活動を始め、気象庁が1975年(昭和50年)に刊行した『日本活火山要覧』(初版)では、活火山の当時の定義(噴火の記録のある火山及び現在活発な噴気活動のある火山)に該当する77火山のひとつとして掲載されていた。しかし、定常的な観測体制の整備は行われず、明確な前兆現象が観測されないまま、1979年(昭和54年)10月28日に水蒸気爆発を起こし約1,000 mの高さまで噴煙を噴出した。5時頃に発生した噴火は14時に最大となりその後衰退し、噴出物の総量は約二十数万トンで北東方向に噴煙が流れ軽井沢や前橋市まで降灰した。この噴火がきっかけとなり、日本国内の死火山、休火山、活火山という定義そのものを見直すこととなった。現在では活火山以外の言葉は使われない。


火山史

御嶽山の火山は、古期と新期の火山帯からなる。古期御嶽火山は約80-40万年前に噴出した溶岩と火山砕屑物からなる山体で、現在とほぼ同じ位置の火口からの比較的静穏な噴火により形成され、標高3,200-3,400 mほどの成層火山であった。その後約10万年前まで火山活動の休止期間が続き、山体は浸食を受けて深い谷が形成された。新期御嶽火山は約10-2万年前に噴出した火山であり、摩利支天火山群と西側の継母岳火山群に分類される。摩利支天火山群は、三ノ池火山溶岩流、ニノ池火山の成層火山斜面及び溶岩流、、一ノ池火山の成層火山斜面及び溶岩流、四ノ池火山の成層火山斜面及び溶岩流、継子岳火山の成層火山斜面及び溶岩流、摩利支天火山の前期火山群の火山帯斜面に区分される。カルデラが形成された後、ほぼ南北方向に並ぶ小火山群が、四ノ池火口(溶岩と火砕物)、一ノ池火口(溶岩と火砕物)、二ノ池火口(溶岩と火砕物)、四ノ池火口(降下スコリア)、三ノ池火口(溶岩)、五ノ池火口(少量の火砕物)の順に噴火活動をした。噴出量は四ノ池火口からのものが最大で、一ノ池火口と二ノ池火口は山頂の小カルデラ内に形成されたもので、現在の御嶽山の最高点の剣ヶ峰の火口丘が形成された。約9,000年前に噴出した最も新しい溶岩流である三ノ池溶岩流は、ほぼそのまま残っている。その後二ノ池の北畔に東西に並ぶ小規模の爆裂火口が形成された。最近1万年間で、4回のマグマ噴火と12回の水蒸気爆発が起きたことが判明している。『御嶽山 地質と噴火の記録』千村出版によれば、774年と1892年に噴火活動があったとされているが、その研究によりこの2回の噴火は発生していなかったことが明らかとなっている。1979年(昭和54年)10月28日に発生した水蒸気爆発では、地獄谷上部の標高2,700 m付近を西端とし東南東に並ぶ10個の火口群が形成され、10万 m3ほどの小規模な噴出量であった。その後の火山活動はごく小規模で、1991年5月中旬と2007年の3月後半にごく少量の火山灰を噴出し、79火口群の一部の八丁ダルミ直下南と山頂直下南面の地獄谷の上部の噴気孔から噴気活動が続いている。

1927年(昭和4年)に京都大学地理学者に田中阿歌麿が湖沼の調査を行った。御嶽山には、5つの火口湖があり、一ノ池から五ノ池の名前が付けられている。常に水をたたえているのは、エメラルド色の二ノ池と三ノ池である。二ノ池は日本で最も高いところ (2,905 m) にあるお盆形状の水深3.5 mの湖沼で、集水面積は湖面の数倍あり、ミクリガ池などの飛騨山脈の火口湖と比べて水位の日変化が40 cm程と大きいのが特徴である。昼夜の気温差による雪解け量の差がその原因である。夏でも雪渓が残り北西斜面の雪渓の雪解け水・天水・伏流水を集め、水位が極端に上昇した場合には、東端にあるニノ池小屋付近から北東に排水される。1979年の噴火活動の際に、ニノ池に大量の硫黄が流れ込み池の水は酸性度が強くなった。周辺の山小屋ではこの湖水をポンプで送水して宿泊者のためのお風呂の水に利用している。三ノ池は御嶽山で最大の池で、湖盆の平均斜度14.4度、水深が13.3 m、8月初旬の平均水温が表面で9.7 °C低層で9.5 °Cである。三ノ池畔には荒神と白龍王初春姫大神などの神々が祀られていて、三ノ池の湖水は信者の御神水(ごしんすい)とされていている。王滝村御嶽神社里宮御神水とともに「信州の名水・秘水」の一つに選定されている。四ノ池は高層湿原となっていて、小川が流れており、高山植物の群生地となっている。なお、二ノ池北西の斜面の下、賽の河原との間に小さな窪地があり、多雨期には水がたまる。これを六ノ池と呼ぶことがある。賽の河原の西端、シン谷へ落ち込むところに日本最高所の滝 (2,800 m) がある。この谷は兵衛谷となり濁河川と合流し小坂川となって、飛騨川に注いでいる[注釈 4]。三ノ池のみにオンダケトビケラ(学名:Pseudostenophylax sp.)の幼虫が生息する。

長野県西部地震による御嶽山の大規模崩壊

1984年(昭和59年)9月14日8時48分49秒に南山麓で発生した長野県西部地震(M6.8)により、御嶽山南斜面で大規模な山体崩壊が発生した。地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達した。平均80-100 km/h、延長距離約3 kmで、「御岳崩れ」と呼ばれることがある。濁川温泉、住宅、営林署の建物を流失させ、15人が犠牲となった。

御嶽山の動物

3万年前の旧石器時代にオオツノシカが生息していて、東山麓の開田高原はその狩猟場であった。柳又遺跡からは石器や土器が出土している。山頂付近の登山道の高山帯に生息するホシガラス、ライチョウ、クジャクチョウなどが見られる。ライチョウ(雷鳥)は日本で特別天然記念物に指定され、環境省によりレッドリストの絶滅危惧IA類、岐阜県では絶滅危惧I類、長野県では絶滅危惧II類に指定され絶滅が危惧されている。1981年の調査で50箇所あったライチョウの縄張りが、2008年の調査で28箇所に減少している。2012年12月に、西側の前衛峰である御嶽山系の御前山の標高1,500 m付近でライチョウ1羽(冬羽のメス)が確認され、冬期に尾根伝いに高山帯から移動してきたものと見られている。山域にはイタチ、イノシシ、タヌキ、ツキノワグマ、ニホンザル、ホンドギツネなどが生息し、アトリ、イカル、キジ、キバシリ、ヒガラ、ブッポウソウなどの鳥類も豊富である。南東山麓の長野県木曽郡木曽町の「三岳のブッポウソウ繁殖地」は国の天然記念物の指定を受けている。開田高原ではその産地であった木曽馬が飼育されていて、長野県の天然記念物の指定を受けている。チョウ目ヤガ科のオンタケクロヨトウ(学名:Apamea ontakensis Sugi)の高山蛾は、御嶽山の高山帯のみに生息する[注釈 9]。本州の限られた山岳地帯に分布するチョウ目シャクガ科のウチジロナミシャク(学名:Dysstroma truncata fusconebulosa Inoue)は、岐阜県では御嶽山のみで分布が確認されている[注釈 10][147

御嶽山の植物

江戸時代末期に御嶽山の高山植物は「御神草」として珍重され、山頂部の高山帯に自生するコマクサは薬草として採集され多くの自生のものが消滅した[注釈 11]。山頂部のコマクサ群落の再生活動が行われている。1887年(明治20年)7月に植物学者の白井光太郎が登頂して高山植物を採集し、1889年(明治22年)には三好学らも採集し、1933年(昭和8年)に植物学者の中野治房が御嶽山の植物生態を調査した。山の上部の森林限界の高山帯には、アオノツガザクラ、イワウメ、ウラジロナナカマド、オオヒョウタンボク、ガンコウラン、キバナシャクナゲ、クロマメノキ、コケモモ、コメバツガザクラ、タカネナナカマド、チングルマ、ハイマツ、ミネズオウ、ミヤマハンノキなどの樹木とイワギキョウ、イワツメクサ、オンタデ、クモマグサ[注釈 12]、クロユリ、コマクサ、シラタマノキ、チシマギキョウ、トウヤクリンドウ、ハクサンイチゲ、ミヤマアキノキリンソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマダイコンソウ、モミジカラマツなどの多くの高山植物が自生している。日本の固有種であるオンタデ(御蓼)の和名は、この山で最初に発見されたことによる。ウラジロナナカマドとタカネナナカマドとの雑種のオンタケナナカマド(学名:Sorbus x yokouchii M.Mizush. ex T.Shimizu)が自生している。中腹の亜高山帯では、オオシラビソ、オガラバナ、コメツガ、シラビソ、ダケカンバ、トウヒ、ナナカマド、ハリブキ、ミヤマザクラなどの樹木とオサバグサ、カニコウモリ、キソアザミ、キソチドリ、ゴゼンタチバナ、コバイケイソウ、サンカヨウ、セリバシオガマ、タケシマラン、ツバメオモト、バイカオウレン、マイヅルソウ、ムシトリスミレ、ユキザサなどの草花が自生している。下部の山地帯では、イヌブナ、カエデ類、カツラ、クリ、シラカンバ、シナノキ、ミズナラなどの落葉広葉樹とトチノキ、クロベ、サワラ、ヒノキなどの自然林の針葉樹とカラマツ、スギ、ヒノキなどの人工林、イワカガミ、クガイソウ、ササユリ、ススキ、ツルアジサイ、トリアショウマ、ホタルブクロ、マツムシソウ、ヤナギランなどの草花が分布している。「御岳オサバグサ」(面積18.39 ha)と「胡桃島ハイマツ等」が林野庁により、植物群落保護林の指定を受けている。「木曽ヒノキ」は、「秋田のスギ」と「津軽のヒバ」とともに『日本三大美林』に選定されている。南側は現在も火山活動中であり植物相は貧弱で、北側はコマクサの群生地など豊富な植物相となっている。1910年に植物学者小泉源一がこの山でトリカブト属のオンタケブシ(学名:Aconitum metajaponicum Nakai)を採集しその和名の由来となっている。オンタケチブシは絶滅が危惧されていて、環境省の絶滅危惧IA類の指定を受けている。

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