ベス創作に使えそうな史実ネタメモ

数冊比較をしているわけではなく1冊のみ参考にしていることと、掻い摘んで書いているためにちょこちょこ違う点があるかもしれません。あくまで創作ネタ程度でとらえてください〜。

cinobu さん

69 PV

1.『スペイン フェリペ二世の生涯―慎重王とヨーロッパ王家の王女たち 』(2005年/彩流社 /西川 和子 著)より

【1】
1527年フェリペ生誕。難産を越えて生まれた子は、金髪で巻き毛の、目は青く肌の白い子。 6歳:狩り遊びが好き。母や女官の間で大切に育てられてきたフェリペは、字の読み書きができない。(p.18、p.34)

【2】
7歳:蝶や鳥を集めるのが好き。なにもせずにぼおっと遠くを眺めているのが好き。 「男子は、王でさえも、泣くときがある。しかしそれは、まったく一人でいるときなのだ。」と口にする教授による教育効果の成果で、感情を表に出さなくなる。いろいろな鳥を飼育するのが好き、おもちゃの兵隊で遊ぶのがすき、音楽を聴くのも好き。(p.35、p.36)

【3】
8歳:体は丈夫ではない。運悪く傷んだ魚を食べてサルモネラ菌に感染。生死のハザマをさまよう。 2ヶ月もの長い病気の結果、毎朝の早朝ミサを欠かさなくなり、わずかながらも大人の道を歩み始める。(p.36)

【4】
9歳:文法、カトリックの公教要理を学び、乗馬も少しできる。(母の飼い慣らされた子馬程度にならば) 病気がち。痔を患い、胃病もちであり、マラリアにもかかり、喘息で、水疱瘡にもかかる。(p.37)

【5】
このころより、繰り返し繰り返し父の話をする母。「貴方のお父様は、ヨーロッパで一番、素晴らしいお方です」「チュニスを征服して、イスラム教徒の捕虜になっていたキリスト教徒を解放したのですよ」フェリペの中で父親像は凝縮され、理想化され、唯一の英雄像となっていく。(p.38)

【6−1】
12歳:母イザベル他界。母他界。丈夫ではなかった上に、出産を繰り返し、その上難産。臨終の歳はフェリペもカルロスもマドリッドにいたため立ち会えず。慎み深い王妃は死後の体を人の手で触れられることを拒否し、自然のまま埋葬されることを望む。しかしそれが裏目に出る。 塩蔵のみの遺骸は無残に腐敗。(p.43)

【6−2】
グラナダの王室礼拝堂にて、開棺に立ち会うフェリペの目の前には恐ろしげな塊が横たわっていた。フェリペは言葉にならないショックを受ける。最も愛する、この世で一番美しい人の変わり果てた姿。人間の尊厳とはなんぞやと自問を繰り返す。 (なお、葬儀取り仕切り役の臣下フランシスコ・デ・ボルハのショックも大変なものであり、この光景が原因で聖職者への道を志したといわれている。)(p.43)

【7】
15歳:結婚話がもちあがる。相手はフランソワ1世の娘ジャンヌ・ダルブレ。 本来父に従順な息子フェリペがこの時ばかりは異を唱える。 相手はポルトガル王女のマリア・マヌエラ(母の姪)が好ましいと主張。政治的意図と、母への思いを添えて。(p.46)

【8】
16歳:ポルトガル王女のマリアと結婚。(この年の春、父カルロスはプロテスタント問題を解決すべくスペインを立ち、1556年まで戻らない。) 父不在の間はスペインの摂政を務める。この間、マリアへ書かれたフェリペ評「中背、手足のバランスが良い。赤毛、目は青くはっきり。下唇は肉付きよく下がっている。用心深く、口数少なく、非社交的。 狩りと乗馬がお気に入り。音楽好きでダンスは巧み。演劇喜劇闘牛は好きではない」(p.46、p.54)

【9】
18歳:妻マリアの難産の末、第1子ドン・カルロス誕生。しかし出産から4日後にして、マリアはそのまま逝去する。 摂政するにあたって父がフェリペの周りにおいた重臣たちがここ1,2年の間に時をそろえたかのよう逝去。残されたのは幼いカルロス(しかも親戚結婚ゆえ劣性遺伝が災いし異様に頭が大きかった)とあまりに巨大なスペイン帝国。気が遠くなりそうになりながら、呆然としつつ十代を終える。 母イザベルの死で始まった十代は、妻マリアの死で終わった。(p.54)

【10】
この頃のフェリペの見目はネーデルランド人であるが、中身はカステーリャ人。カステーリャ語は完全に読み書きでき、母の影響でポルトガル語にも堪能であった。しかしドイツ・イタリア・フランス・英語は乏しく、勉強の意欲もなかったという(p.62)

【11】
統治者としての知見を持つためにヨーロッパ大旅行。24歳、帰国。ヴェネチア大使によるフェリペ描写 「中肉中背、体質的に繊細。身体は強くない。孤独が好き。豪華で洗練された衣装を身につけ、他の人とはまったく異なる様子でいることが好き」(p.70)

【12】
27歳:2回目の結婚話。相手はイングランド女王メアリー・チューダー。ロンドンで代理結婚、結婚協定締結。(内容は圧倒的メアリー優位のものであった※)プロテスタントが脅威となる現状、カトリックに縋る他ない。父の命に従い、粛々とイングランドに渡る。(p.75)

※政治的に二人は同権であるが、その指揮権はメアリーにあり、フェリペはイングランド公文書に署名することはできない。イングランドに外国の軍隊を持ち込むことができない。メアリーが先に崩御した場合、フェリペはイングランドにいることはできない 等

【13】
二人が会ったとき、メアリーはフランス語で、フェリペはスペイン語で会話。メアリーは、フェリペに最初の英語として「おやすみなさい」という単語を教える。しかし語学の才能に若干欠けるフェリペは、この語をなかなか覚えられず、何度も反復していたという。(p.80)

※以下14、15は、著者の私見めちゃくちゃ入ってそうだったですが、滾ったので記します。※

【14】
メアリーの妊娠が水症だと発覚。民衆からは「ブラッディ・メアリー」と呼ばれ、メアリーの傷心の日々は続く。しかし何より、自分がフェリペと結婚したのはカトリックを通しての絆であった事から、プロテスタントの弾圧を進推し進めた。 フェリペへの思いが増すにつれ反教者への仕打ちも増す。フェリペへの愛はカトリックの擁護であり、反教者の処刑であった。(p.82)

【15】
メアリーが自国のプロテスタントと戦い、自分の心をもてあまし、妊娠でないことが判明して傷心していても、 フェリペは相変わらず礼儀正しく、メアリーを大切にしていた。フェリペは自らの使命2つを常に自覚していたがため、気持ちを動揺させずメアリーを支えることができた。ひとつは「イングランドをカトリックの国にすること」もうひとつは「メアリーとの間に子どもを作ること。 」(p.82)

【16】
28歳:フェリペの前者の使命は達成され、後者はおそらく不可能であろうと結論付けていた。イングランドで成すべき事は終わった。9月、フェリペは父より帰国の命令を受け、ドーバー海峡を渡る。メアリーは目に涙をためたまま、港まで見送りに来る。互いに国家を背負っている以上、仕方の無い別れである。(p.83)

・・・以下メアリー存命だし使えそうな気がしなくなってきたけど連投。  

【17】
29歳:父カルロスの退位のため、スペイン王に即位。30歳:対フランス軍の資金調達のために3ヶ月イングランドに滞在。2年越しに英国女王に再会。メアリーは心からフェリペの来訪を歓迎したという。(p.88)

【18−1】
ヴェネチア大使によるフェリペ王評「体質的には粘着質で、憂鬱症が胃痛や腰痛を引き起こしている。そこで医者たちは、身体を強くする目的や 憂鬱症的思考から離れるためにも、狩りを推奨」「性格は内気。食べ物には目がなく、節制せず」(p.90)

【18−2】
「特にケーキ類が好物」また、「王がネーデルランドを旅したころ、王は横柄で高慢で近づきがたかった。しかし今はおだやかでやさしく見え、 王と接したものはみな慈悲深さを感じ、王が自分のことを気にかけてくれるように感じるのだ。」とも記されている。(p.90)

【19−1】
31歳:9月に父カルロスが、11月にはメアリーが続けて逝去。メアリーはフェリペにとって、父の従妹であり、血の繋がりを感じさせる同族的安堵感をもたらす存在であったという。

【19−2】
この頃のフェリペ評「知性があって、よく働く。王の体力からすると、働きすぎかと思えるほど。すべての書類に王自ら目を通し、王と話す人すべての面倒を見ている。しかし相手と目を合わせることはなく、目を伏せているかあるいは違う方向を見ている。」(p.95)

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無敵艦隊の件も入れたかったのですが、ベス創作に使えそうなのはここらへんのくらいかなーーと思うのと、際限ないのでこれにてメモ終わり。長々と失礼しました。げんぺとふるぺ足して2で割った感あったりなかったりするのがおいしかったです。
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その他書籍にも「お!」と思う小ネタが。

◆蒐集癖のあるフェリペ
音楽とオカルトの趣味を持ち、また、貨幣、メダル、彫像、絵、武器、アフリカの動物など何でも集める (『スペイン王権史』より) 


◆仕事人フェリペ
執務時間は14時間/1日に及んだとも言われる。( 『スペイン王権史』より)


◆フェリペの好きな画家
初めての外国旅行(1548-1551年)では、ミラノでは画家ティッツィアーノ、彫刻家レオーネ・レオーニに出会う。ネーデルランドでは画家のボッスに出会い、強烈な印象を受け、その獲得に心を砕いた。ちなみにエル・グレコはお気に召さなかった模様。( 『スペイン王権史』より)


◆ちょっとめんどくさい性格のフェリペ
人を信用したがらない反面、信じ込みやすい性格のフェリペは、 公文書の中に埋もれている時にだけ完全に安らぎを感じていた。(『スペイン帝国の滅亡』より) 


◆オカルトの趣味があるフェリペ?
いくつかの文献より類推。・・ええと、ここでいう、「オカルト」にあたるものは「錬金術」だと思われます。
(以下『ドン・キホーテの世紀 スペイン黄金時代を読む』より)
フェリペの国王時代は「太陽の沈むことのない国」などといわれたものの、 実際経済はほぼ破産状態であった。財政立て直しのため、錬金術に思いをはせたくなる状況は出来上がっている。 「慎重王」のあだ名で知られるフェリペだが、1559年にはドイツの錬金術師シュテンベルクの実験に機会を与えている。また、数年後にはイタリアのレオナルド・フィオヴァンティより『物性論』なる本が献じられている。(フェリペの反応は不明) 同書はイタリア語とスペイン語が入り乱れた奇妙な本で、本文には錬金術論、巻末には「賢者の石に関する俗謡」が掲載されている。

2.『英国史』(上) (1958年/新潮社/アンドレ・モロワ 著)より

ももさんより情報をご提供いただきました。ありがとうございます。


◆(エリザベスの改宗の発言に)メアリーは感動し、有頂天になった。だが、炯眼なスペイン大使の方は、ずるくて容易に打ち解けぬこの王女を見抜いていたので、疑惑の眼でこれを見たのであった


◆『私がこの結婚を切り出した時』とルナールは書いている、『彼女は一再ならず笑ったが、わたしを見つめた彼女の眼は、それが彼女にとってひどく嬉しかったことを示していた』そして、その会談の際に、『彼女は誓って言った、-自分は世間で恋と呼んでいるものの誘いを嘗て感じたこともなければ、肉欲の思いに耽ったこともなかったし、また、神の思召しによって王冠を戴くまでは結婚など考えたこともなかったそして、今後自分が結婚することになるとしても、それは国家に対する顧慮から、敢て自分自身の愛情に反してなされることにするだろう、と』だが、彼女は、『カール五世を本当の父とも思って、自分は万事彼の言うとおりにする』という希望を確と伝えるよう大使に請うた


◆(アンについて)二番目の結婚を切断するには斧で十分であった。可哀想なアン・ボレーンは二つの失策を犯した。すなわち期待されていた嗣子の代わりに彼女は女子エリザベスを生み、次に生まれた男児は死産であった。しかも彼女は王を欺いたのであった。その理由は、恐らく、王には健康な子供を上げる見込みがなさそうに思われたので、それで彼女は王を失望させまいとしたのであろう。こうした罪の為に、彼女のかわいい首は、死刑執行人の刃の下に断たれたのだ


◆メアリー・チュードルは、一個の女の魂の中で、愛と、狂信と、全能とがたまたま一緒になったことから生ずる紊乱の、一つの哀れな実例である


◆新教徒に対する彼女の迫害の残忍さも、確かに一部分は狂気に近い精神錯乱から説明されえる。フィリップとて彼女にこのような苛酷さを勧めはしなかった。異教徒を焚殺するのは、スペインやネーデルランドでは結構だが、イギリスでは慎重にやるため若干の忍耐が必要だ、というのが彼の考え方だった。メアリーは忍耐などしなかった

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