昭和天皇が靖国神社に行かなくなった理由

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昭和天皇がある時を境に靖国神社に行かなくなったのを知ってますか?

A級戦犯の合祀問題
1978年に、第二次世界大戦のA級戦犯14名が靖国神社に合祀されました。これに対し、昭和天皇は不快感を示したとされています。歴史家の研究や宮内庁関係者の証言によると、天皇は戦犯の合祀によって靖国神社の性格が変わることを懸念し、以降の参拝を控えた可能性があります。特に、A級戦犯の責任と一般の戦没者慰霊の区別を重視していたとの見方があります。

政治的・国際的配慮
戦後、靖国神社は戦争責任や軍国主義の象徴として、国内外で議論の対象でした。特に中国や韓国など近隣諸国は、靖国参拝を日本の過去の侵略行為の正当化とみなす傾向がありました。昭和天皇は、戦後の日本が平和国家として国際社会に復帰する中で、こうした外交的摩擦を避ける意図があったと考えられます。

憲法との関係
日本国憲法は政教分離を定めており、天皇の靖国参拝が国家と宗教の関係にどう影響するかが議論されました。昭和天皇は、自身の行動が憲法の精神に反するとの懸念を持ち、公式参拝を控えた可能性があります。実際、戦後の天皇の参拝は「私的参拝」とされていましたが、その線引きは曖昧で、政治問題化しやすかった。

個人的な思い
昭和天皇は戦争の責任について深い自責の念を抱いていたとされ、靖国参拝が戦前の軍国主義を想起させることを避けたかったとの説もあります。戦没者への慰霊は心から望んでいたものの、靖国神社という特定の場にこだわらず、全国の慰霊碑や戦没者追悼式典などでその思いを表現したかった可能性があります。

具体的な経緯
昭和天皇は戦後、1945年から1975年までに計8回、靖国神社に参拝しました(最後の参拝は1975年11月21日)。

1978年のA級戦犯合祀以降、昭和天皇は靖国神社に参拝しませんでした。

1988年に宮内庁長官が「A級戦犯合祀が理由で参拝を控えた」とするメモ(富田メモ)が後に公表され、この問題が注目されました。

この富田メモが2006年に新聞に掲載されて話題に

前にもあったが どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ
日本経済新聞社は2006年5月[1]にメモを遺族から入手し、日本史研究家である秦郁彦・半藤一利の両人に分析を依頼した。『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊第1面トップで「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」という見出しでメモの内容を報じるとともに、メモの写真の一部を公開した(経済関連の重要ニュースを通常一面トップを基本とする同社では異例の対応であった)。その中で、昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したという内容が注目された。各報道機関・番組も、この記事を大きく報道した。



また、同記事では長男の証言による筑波藤麿の言葉を紹介している。

B、C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者なので後回しだ。自分が生きてるうちは合祀はないだろう。
また、長男は「父からは天皇の気持ちについては聞いたことはない」とも語っていたと報じた(「後回し」の理由については「宮内庁の関係だ」と筑波がはっきりと言ったと元靖国神社広報課長の馬場久夫は証言している。馬場は「当時は何のことだか分からなかったが、『天皇のお気持ち』の意味だと考えると、なるほどと思う」とも話している[2])。

なぜそれほどまでにA級戦犯を非難したのか?

A級戦犯とは
A級戦犯とは、第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判、1946~1948年)で、「平和に対する罪」(侵略戦争の計画・実行など)に問われた指導者層を指します。東京裁判では、28名がA級戦犯として起訴され、以下の結果となりました。
A級戦犯全員のリストと判決
以下は起訴された28名のリストとその判決です(五十音順):
荒木貞夫(元陸軍大臣、教育総監):終身禁固。1955年仮釈放。
板垣征四郎(元陸軍大将、満州事変関与):死刑(1948年執行)。
大島浩(元駐独大使):終身禁固。1955年仮釈放。
岡敬純(元海軍中将):終身禁固。1956年仮釈放。
小磯國昭(元首相):終身禁固。1950年獄死。
木戸幸一(元内大臣):終身禁固。1955年仮釈放。
木村兵太郎(元陸軍次官):死刑(1948年執行)。
佐藤賢了(元陸軍中将):終身禁固。1956年仮釈放。
嶋田繁太郎(元海軍大臣):終身禁固。1955年仮釈放。
白鳥敏夫(元外務官僚):終身禁固。1949年獄死。
鈴木貞一(元企画院総裁):終身禁固。1956年仮釈放。
武藤章(元陸軍中将):死刑(1948年執行)。
東郷茂徳(元外相):禁固20年。1950年獄死。
東條英機(元首相、陸軍大将):死刑(1948年執行)。
土肥原賢二(元陸軍大将、満州事変関与):死刑(1948年執行)。
永野修身(元海軍元帥):終身禁固。1947年獄死。
橋本欣五郎(元陸軍大佐、満州事変関与):終身禁固。1955年仮釈放。
畑俊六(元陸軍元帥):終身禁固。1955年仮釈放。
平沼騏一郎(元首相):終身禁固。1952年獄死。
広田弘毅(元首相、外相):死刑(1948年執行)。
星野直樹(元内閣書記官長):終身禁固。1955年仮釈放。
松井石根(元陸軍大将、南京事件関与):死刑(1948年執行)。
松岡洋右(元外相):裁判中に病死(1946年)。判決なし。
南次郎(元陸軍大将):終身禁固。1955年仮釈放。
梅津美治郎(元陸軍大将):終身禁固。1949年獄死。
宮崎周一(元陸軍中将):不起訴(病気のため)。
矢田部保吉(元海軍中将):不起訴(病気のため)。
山本五十六(元海軍元帥):戦死(1943年)のため起訴対象外。
判決概要:
死刑:7名(1948年12月23日執行)
終身禁固:16名(後に多くが仮釈放)
禁固20年:1名
獄死・病死:5名
不起訴:2名

昭和天皇がA級戦犯を嫌悪したとされる理由
昭和天皇がA級戦犯に対して否定的な感情を抱いたとされる理由は、複数の歴史的資料(特に富田朝彦元宮内庁長官の「富田メモ」や側近の証言)や研究に基づいて以下のように考えられています:
戦争責任の押し付けへの不満
昭和天皇は、A級戦犯として裁かれた指導者たちが、戦争の全責任を負わされたことに疑問を持っていた可能性があります。東京裁判では、軍や政府の指導者個人が「平和に対する罪」で裁かれましたが、天皇自身は不起訴でした。これは連合国(特に米国)の政治的判断によるもので、天皇を免責することで日本の占領統治を円滑にする意図があったとされます。昭和天皇は、自らが戦争の最高責任者として関与していたにもかかわらず責任を問われなかったことに対し、A級戦犯だけが責任を負う構図に複雑な思いを抱いたと考えられます。
靖国神社の慰霊の目的との不一致
靖国神社は、戦没者全体を慰霊する場として天皇にとって重要な場所でした。しかし、1978年にA級戦犯14名(東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章)が合祀されたことで、靖国神社の性格が「戦没者慰霊」から「戦争指導者の名誉回復」の場へと変化する懸念が生じました。昭和天皇は、A級戦犯の合祀が靖国神社の本来の目的を損なうと感じ、参拝を控えたとされます。富田メモには、天皇が「だから私はあれ以来参拝していない」と述べたと記録されています。
軍部への不信感
昭和天皇は、戦時中の軍部(特に陸軍)の独走や統制の欠如に不満を抱いていました。A級戦犯の多くは、満州事変や日中戦争、太平洋戦争を主導した軍高官や政治家であり、彼らの判断が戦争の拡大や敗戦を招いたと見なしていた可能性があります。例えば、東條英機ら軍部の指導者に対する不信感が、A級戦犯全体への嫌悪感につながったとの見方があります。
国際的・国内的影響への懸念
A級戦犯の合祀やその後の靖国参拝は、近隣諸国(特に中国や韓国)との外交問題を引き起こす火種でした。昭和天皇は、戦後の日本が平和国家として国際社会に復帰する中で、A級戦犯が象徴する「戦争責任」の問題が外交に悪影響を与えることを懸念したと考えられます。また、国内でもA級戦犯への評価は分かれており、天皇の参拝が政治的議論を招くのを避けたかった可能性があります。
個人的な自責の念
昭和天皇は、戦争の責任について深い自責の念を抱いており、A級戦犯の合祀が「戦争の正当化」と誤解されることを嫌ったとされます。戦後、天皇は戦没者慰霊や平和への願いを重視し、A級戦犯の名誉回復よりも、すべての戦没者を平等に悼む姿勢を優先したかった可能性があります。
補足:富田メモと歴史的資料
富田メモ(1988年公表):宮内庁長官だった富田朝彦が記録したメモで、昭和天皇がA級戦犯合祀を理由に靖国参拝を控えたと述べたとする内容が含まれます。「私はやはし、そういう戦犯が、合祀され、そういうことに、気持が、悪いから、参拝しない」との発言が記録されている。このメモは、天皇のA級戦犯への否定的感情を示す重要な資料とされる。
側近の証言:木戸幸一(元内大臣)や宮廷の側近の記録でも、天皇が戦争指導者の責任を批判する発言があったとされる。
靖国神社の対応:靖国神社は、A級戦犯合祀を非公開で行い、天皇に事前連絡をしなかった。この点も、天皇の不快感を増幅したと指摘される。
結論
A級戦犯は、東京裁判で侵略戦争の主導者として裁かれた28名(実質26名)で、死刑7名、終身禁固など重い判決を受けた者が多かった。昭和天皇がA級戦犯を嫌悪したとされる主な理由は、①戦争責任の押し付けへの不満、②靖国神社の慰霊目的との不一致、③軍部への不信感、④国際的・国内的影響への懸念、⑤個人的な自責の念と平和への願い、の5つです。特に、1978年のA級戦犯合祀を契機に靖国参拝を控えられたことが、富田メモなどで裏付けられており、天皇の複雑な心境を象徴しています。

富田メモはでっちあげとの噂も

「でっちあげ」と言われる理由と主張
メモの信憑性への疑問
私的メモの性格:富田メモは公式な公文書ではなく、富田朝彦個人の手書きメモであり、作成経緯や保管状況が不明確です。批判者は、メモが個人的な見解や後付けの創作である可能性を指摘し、昭和天皇の発言を直接裏付ける他の公式記録がないことを問題視します。

文脈の曖昧さ:メモは断片的で、天皇の発言の背景や正確な状況(いつ、どこで、どのような文脈で話したか)が明確でない。これにより、発言が誇張や誤解に基づくものだと主張する声があります。

政治的意図の疑い
反靖国勢力の利用:保守派の一部は、富田メモが靖国参拝を批判する勢力(特に左派や中国・韓国など近隣諸国の政府)によって利用されたと主張します。メモの公開が、靖国問題を巡る政治的議論を再燃させるタイミング(2006年、小泉純一郎首相の靖国参拝問題が過熱していた時期)と重なったため、意図的な「でっちあげ」や「政治的操作」と見なす声があります。

メディアの関与:メモを報じた日本経済新聞に対し、保守派は「リベラル寄りのメディアが天皇を利用して靖国参拝を否定する意図があった」と批判。メモの公開が特定のイデオロギーを押し出すための捏造だと主張する者もいます。

昭和天皇の行動との矛盾
参拝の継続性:昭和天皇は1975年まで靖国神社に参拝しており、A級戦犯合祀(1978年)以前にも参拝が途絶えていた時期がある。批判者は、合祀だけが参拝停止の理由とは考えにくいと主張し、メモが天皇の真意を単純化しすぎていると見なします。

他の要因の可能性:参拝停止の理由として、政教分離原則、国際的批判(特に中国・韓国からの反発)、高齢化による健康問題など、A級戦犯合祀以外の要因が影響した可能性がある。メモが合祀だけを強調するのは不自然だと主張される。

富田朝彦の信頼性への疑問
個人的動機:富田朝彦がメモを作成した動機が不明で、自身の政治的立場や後世への影響を意図した可能性があると疑う声があります。富田が宮内庁長官として天皇と近い立場にあったため、メモに創作や誇張を加えた可能性を指摘する批判者もいます。

他の側近との不一致:他の宮内庁関係者や天皇の側近からの証言で、富田メモと同等の内容を裏付ける明確な記録が少ない。保守派は、富田一人の証言に頼るのは危険だと主張します。

靖国神社の立場
靖国神社側は、A級戦犯合祀は戦没者慰霊の一環であり、問題ないとする立場です。富田メモが天皇の不快感を強調することで、合祀の正当性を損なうと受け止める関係者もおり、メモ自体を「でっちあげ」として否定する動機があります。

反論:富田メモの信憑性を支持する見方
一方で、富田メモが本物であり、昭和天皇の真意を反映しているとする見解も多く、以下のような点が挙げられます:
富田の立場:富田朝彦は1969年から1988年まで宮内庁長官を務め、昭和天皇と直接対話する機会が多かった。メモは私的記録だが、その立場から天皇の発言を正確に記録した可能性が高い。

他の資料との一致:富田メモの内容は、昭和天皇の側近(例:徳川義寛侍従長の日記)や他の歴史資料で、天皇が戦争責任や軍部に複雑な感情を抱いていたことを示唆する記述と部分的に一致します。

歴史的文脈:A級戦犯合祀(1978年)後に昭和天皇が靖国参拝を完全に停止した事実は、メモの内容を裏付ける間接的証拠とされる。1975年の参拝を最後に、1989年の崩御まで参拝がなかったのは、合祀への不快感が一因との解釈が有力。

学術的評価:多くの歴史家(例:山田朗、吉田裕など)は、富田メモを重要な史料として扱い、でっちあげとする証拠が乏しいと指摘。メモの筆跡鑑定や富田家の保管状況からも、偽造の可能性は低いとされる。

「でっちあげ」説の評価
証拠の乏しさ:富田メモがでっちあげだと主張する側は、具体的な偽造の証拠(例:筆跡の不一致、矛盾する公式記録)を提示できていない。批判の多くは推測や政治的動機に基づく。

政治的背景:でっちあげ説は、靖国参拝を正当化したい保守派や、A級戦犯の名誉回復を求めるグループのイデオロギー的動機に影響されている可能性がある。これに対し、メモを支持する側も、靖国参拝反対の政治的意図を持つ場合があり、議論はしばしばイデオロギー対立に終始する。

学術的コン:歴史学者の間では、富田メモを完全に否定する見解は少数派。メモの信憑性を疑う声はあるが、「でっちあげ」と断定するには根拠が不足しているとの見方が一般的。

もし昭和天皇がA級戦犯を嫌悪していたとするならば

世界政府運動に連動して戦争を起こした中国マフィア青幇とズブズブだった里見機関、もといA級戦犯達に担ぎ上げられた自分への自責の念だったのだろうか?

敵であった米英に買ってもらった国債で太平洋戦争をやっていた日本、敗戦後その莫大すぎる国債の償還を分割だけで返せたと本当にみんな思ってるのかな?
もしかしてあれは治験だった人体実験だった、莫大な借金の頭金を国民の命と引き換えに払わざるおえなかったとしたら...借金と引き換えに日本という国を売るか、それとも悪魔の実験に実験体を引き渡して日本の独立を守るか
やむおえないというのはそう意味だったとしたら
戦争は結局A級戦犯などの軍産複合体の私服を肥やすためだけに行われたと知った時、国家元首としてどうゆう行動をあなたはとりますか?

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