1分で分かるシリア内戦の原因

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旧アサド政権

シリアは複数政党制を採っておらず、一党独裁状態によって政権が運用されている。

シリア元大統領のハーフィズ・アル=アサドは、対立政党や対立候補者を選挙から締め出しながら30年近くにわたりシリアを指導してきた。

1982年には、イスラム主義運動を鎮圧するため、 ハーフィズ・アル=アサドは焦土作戦を指揮し、一般市民を含む数万の人々が殺害された。

シリアは1962年以来、「非常事態法」の下にあり、憲法による国民の保護は事実上停止されていた。

シリア政府はシリアがイスラエルと戦争状態にあった事実を指してこの非常事態宣言を正当化していた。
事実、2007年、2013年にはイスラエル空軍による空爆攻撃を受けている。

当局はこの権限により、人権活動家や政府批評家を逮捕や拘留することができた。
表現、結社、集会の権利は厳格に制限されていて、女性や少数派民族は差別に直面していた。

新アサド政権

ハーフィズ・アル=アサドの死後、2000年1月、住民投票により息子であるバッシャール・アル=アサドが後継者となった。

バッシャールは、シリアの最高学府であるダマスカス大学医学部を卒業後、軍医として働き、1992年には英国に留学し、ロンドンの病院で研修していた医師であった。

バッシャールには政治的経験がほとんど無かったが、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴え、党や政府の高官は次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。

生来の温厚な性格もあって、憲法で承認された絶大な大統領権力は、バッシャール時代になるとあまり行使されなくなった。

しかしながら、改革派として期待されたバッシャールは権力を握って以来の10年間で、シリアの人権を改善させることに失敗したとされる。

抗議運動から内戦へ

シリア国内で「アル=アサド退陣」を求める抗議運動が始まった。

これは初めのうちはささやかなものであったが、2011年2月5日に発生した数百名規模のデモにおいて、シリア当局が多数の人々を逮捕した。

これが引き金になって、デモは急速に拡大していき、数千人規模となった。
ついには治安部隊がデモを鎮圧するため発砲し、1名が殺害された。

抗議者たちは【全ての政治犯の釈放、抗議者を殺害した者に対する裁判の実施、シリア非常事態法の撤廃、さらなる自由、そして汚職の終息】を要求し、デモはさらにエスカレートしていった。

10万人規模にまで拡大したデモでは20人以上の抗議者が治安部隊により殺害された。

その後、アサドは「200名以内の政治犯を釈放し、非常事態法を撤廃する」と発表したが、抗議は収まらなかった。

そして、抗議者たちの一部が武装化し、治安部隊との武力衝突が起きた。
さらに政府軍の一部が離反し結成された自由シリア軍が反体制派に加わり、シリア内戦へと発展した。

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