1972年のミュンヘン五輪で殺害されたイスラエル代表チームの11人を追悼するため、東京オリンピック開会式で黙とうが行われた。五輪開会式でミュンヘン大会の犠牲者を追悼するのは初めて。
イスラエルの選手11人を殺害...1972年ミュンヘン五輪で起きた悲劇とは?
ミュンヘン五輪で起きた悲劇をご存知ですか?
五輪を政治利用しようとするのがどれだけ愚行なのかがわかる事件『黒い9月事件』をご紹介します。
東京オリンピックの開会式が23日夜、東京の新国立競技場であり、1972年9月のミュンヘン五輪で殺害されたイスラエル選手・コーチ11人を追悼する黙祷(もくとう)が行われた。五輪開会式でミュンヘン大会の犠牲者を追悼するのは初めて。
ミュンヘン大会での事件の犠牲者遺族は長年、国際オリンピック委員会(IOC)など五輪関係者に対して、開会式で犠牲者を追悼するよう求めていたが、事件から49年後についに実現した。
事件でそれぞれ夫を失ったアンキー・シュピッツァーさんとイラナ・ロマーノさんは、東京での開会式に出席。「私たちは49年、闘い続けて、決してあきらめなかった」、「ついに報われた」と話した。
2人は、涙を抑えられなかったと言い、「この瞬間をずっと待ちわびていた」と述べた。
1972年8月26日から9月11日にかけて開催されていたオリンピックの選手村[注釈 1]に、9月5日4時40分頃[2]、パレスチナのテロリスト組織「黒い九月」のメンバー8名が敷地のフェンスを乗り越えて侵入した。この時、彼らがフェンスを乗り越えるのを目撃している警備員がいたが、夜間に外出した選手達が人目を忍んで戻ってきただけだと思い、気に留めなかったという。
イスラエル選手団の宿舎を発見したメンバーは、持ち込んだAK-47等の自動小銃や手榴弾などで武装・覆面した上で、午前4時頃に選手村内のイスラエル選手団宿舎へ突入した[3]。 犯人グループは上階のイスラエル選手団居住フロアに侵入し、抵抗したユダヤ系アメリカ人選手とレスリングコーチのモシェ・ワインバーグの2名を殺害し、死亡したワインバーグを庭先に放置したのち、9名を人質に取った[3]。なお、この襲撃時に1人は窓から飛び出して脱出しており、彼が一時拘束された中での唯一の生存者である。
午前5時30分頃、巡回していた警察官がワインバーグの遺体を発見する。その際に立てこもる黒い九月側に気づき、事件が発覚した。黒い九月の占拠部隊は、宿舎から2ページの宣言文からなる●●声明を警察側へ投げ入れ、イスラエルに収監されているパレスチナ人のほか、日本赤軍の岡本公三やドイツ国内で収監中のドイツ赤軍幹部など234名を午前9時までに解放するよう要求した[2]。この事件は、午前6時20分にはテレビの生中継で報道が始まり、事件の最後まで実況中継されることとなる[3]。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/ミュンヘンオリンピック事件
地元警察は、やむを得ず時間稼ぎのため交渉を行なうことにした。午前8時45分頃、ミュンヘン警察本部長はオリンピック関係者2人とともに玄関先で占拠部隊のリーダーと交渉を行い、まだイスラエル当局と協議中であることにし、期限を午後0時にまで延長させた。ただし、解放されなければ人質2人を射殺する条件であった[3]。西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始していたが、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの要求を拒否するとともに、イスラエル国防軍部隊による事態解決を西ドイツに打診するが、西ドイツの法律は外国軍の国内での活動を制限していたこともあり、西ドイツ側は自国で対応するとして拒否した(イスラエルの特殊部隊派遣は西ドイツ側に侮辱だとして受け取られてしまうと思ったために、打診すらしなかったという説もある)。
これにより、西ドイツ当局は交渉による解決を一切断念することに追い込まれ、武力のみの解決を強要されることになった。しかし、この時点では当局側は占拠部隊の正確な人数を把握していなかったため、「イスラエルと交渉中である」と騙し何度も期限延長させていた。
午後5時頃、当局側はオリンピック関係者を人質の確認と称して宿舎へ潜入させることに成功した。このオリンピック関係者がそのとき見た占拠部隊のメンバーの人数は5人であることから、当局側は5人と断定して突入の準備を行い、地元警察側に突入部隊を編成して突入直前までいったが、テレビやラジオで実況中継されていたため、テレビを見ていた占拠部隊に気がつかれてしまい中止することになった。
その後、交渉が行なわれ、占拠部隊は飛行機でエジプトの首都カイロへ脱出することを要求し、当局はそれに合意した。午後10時ごろ、占拠部隊と人質は宿舎の地下から当局が用意したバスで宿舎から200m離れた草地へ移動、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は用意された飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈であった[3]。だがこれは表向きの話で、実際はバスでの移動途中、もしくは空港で犯人グループを狙撃し、人質を解放する計画であった。
午後10時30分、占拠部隊と人質を乗せたヘリコプターがフュルステンフェルトブルック空軍基地(Fürstenfeldbruck)に着陸した。基地には、占拠部隊を狙撃するために警察官が待ち構えていた。狙撃する警察官は軽装で、H&K G3自動小銃(アサルトライフル)の一般警察用モデルを使用し[注釈 2]、管制塔バルコニーに3人と滑走路上に2人が向かい合うように配置されていた。
占拠部隊のリーダーと副リーダーは安全の確認のために、用意されたルフトハンザドイツ航空のボーイング727へ入った。事前の計画では機内に警察官を配置して待ち伏せを行う予定であったが、直前で抗命事件が発生した(後述#人質救出作戦の失敗要因を参照)ために機内には誰もおらず、2名は案内役すらいないことを不審に思い、ヘリコプターへ走って逃げ戻った。その時、滑走路上の狙撃手の1人が発砲し、副リーダーは太ももを負傷したが、リーダーがヘリコプターまでたどり着き、警官側に応射した。これに対し警官側も応戦を始め、銃撃戦になった。
占拠部隊はヘリコプターに立てこもり、狙撃手として配置されていた警官隊は装備が不十分なため応援部隊を待つことにした[3]。空港周辺に詰めかけたマスコミと野次馬による交通渋滞に阻まれて到着が大幅に遅れた応援部隊は、事態がほぼ収束した午後11時30分頃、ようやく現場に到着した。
最終的に、ゲリラの1人が手投げ弾で自爆し、人質が乗ったヘリコプターが爆発、炎上した。人質たちは、両手を後ろ手に縛られ、目隠しのまま、数珠つなぎにされていたため逃げることができなかった[注釈 3]。結果的に人質9名全員と警察官1名が死亡するなどして事件は終結した。犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名は逃走を図るが、その後逮捕された[3]。だがこの3名は同年10月29日のルフトハンザ航空615便ハイジャック事件(英語版)で解放されることになる[4]。
イスラエルではオリンピックの中止を求めるデモも起きたが、反ユダヤ的言動で知られたアベリー・ブランデージIOC会長の命令により続行が指示された。9月6日午前10時からオリンピック・スタジアムで8万人の観衆を集めて、イスラエル選手団の追悼式が行われた。同日午後4時50分、オリンピックは34時間ぶりに再開された[5]。
1960年代後半、ヨルダンに拠点を置いていたパレスチナ解放機構(PLO)の過激な行動に手を焼いた同国のフセイン1世国王は、1970年9月に発生したPFLP旅客機同時ハイジャック事件を契機に、PLO及び傘下の急進派・パレスチナ解放人民戦線の武力追放を決定。ここにヨルダン内戦が勃発する。「黒い九月事件」とも呼ばれるこの内戦で、PLOは多くのメンバーを殺され、追われる形でレバノンのベイルートに拠点を移すことになった。PLOの衝撃は大きく、フセイン国王の行為を裏切りとして強く反発した。
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その後、レバノンで活動を始めたPLOの最大派閥ファタハは、対イスラエル闘争の行き詰まりから、過激な活動を行うための秘密テロ組織を結成した。これが「黒い九月」(ブラックセプテンバー)である。
黒い九月の存在は、ミュンヘンオリンピック事件で一気に知れ渡り、イスラエル選手とコーチが殺害された事件はイスラエルに大きな衝撃を与えた。イスラエル諜報特務庁はこの報復として黒い九月関係者の多くを暗殺している。組織自体はファタハとの関係が明るみに出るや否や解散した。
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