北大路魯山人の毒舌・皮肉(グルメ漫画『美味しんぼ』海原雄山のモデル)

日本のガストロノミーや料理人、陶芸家なら読んでおきたい昭和の偉大な芸術家で美食家の著作から辛口コメントをピックアップ。痛快?傲慢?星岡茶寮の料理人や料理研究家から外国かぶれの食通気取りまでバッサリ!出典は日本料理の要点、フランス料理について、味覚馬鹿、デンマークのビールほか。

kabusake さん

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現在、フランス料理に筋が通っていないのは、その世界に乱れがあるのであろう。それかあらぬか、われわれがフランス料理から学びとるものはほとんどなかったといい得る。これは料理文化の低さを語るものであるが、根本は料理素材の貧困である。いずこいかなるところにあっても、第一番の気がかりは「良水」の有無である。良水を欠く料理、それがなにを生むかは何人にもうなずける事実である。その良水がパリにないとのことである。ビールより高価な壜の水を飲んでいる市民である。次に肉食人に美肉が与えられていない。羊肉、馬肉を盛んに食っている。豚は鎌倉に匹敵するよさを持っているが、鶏肉は雛であるから味の鳥としては推奨できない。しかも、拙劣な料理法によって煮殺している魚介ときては、品種が日本の百に対して一、二であろう。蔬菜またしかりという次第。これでは、われわれ美食家を満足させる手はない。

出典 『フランス料理について』

タキシードを着用に及んだボーイが、銀盆の上で丸裸の鴨をジュージューやってスープを取っている。 早速、ボーイが私たちのところへ持って来た鴨は、半熟にボイルしてあり、二十四万三千七百六十七番という由緒を示す番号札が添えてあった。ボーイは見せるだけ見せると、番号札を残して鴨を持ち去った。 私は案内の者に、
「あんなことをしていちゃあ美味く食えない。食ったところで肉のカスを食うみたいなもので、カスに美味い汁をかけているに過ぎない。ほかの客のはあれでよかろうが、こちらは丸ごと持ってこいと言ってくれ」と頼んだ

出典 「ツール・ダルジャン」にて。『すき焼きと鴨料理――洋食雑感――』

ニューヨークのすき焼きが昔から有名であるが、行ってみると、すき焼きでもなんでもない。桶のようにふちの高い鉄なべの中で、菜っ葉を山のように盛り、見るからに不味そうな肉の幾片かを載せ、グチャグチャ煮ている。それを日本通のアメリカ人がよろこんで、家鴨(あひる)が餌を食うみたいにガボガボ食っている。

出典 『すき焼きと鴨料理――洋食雑感――』

フランスのビールはとりわけまずい。これはフランスに良水がないせいでしょう。チェコスロバキアのビールは、ちょいと中将湯(ちゅうじょうとう)のようなにおいと味とを持っています。ドイツのビールは、ここでも評判ほどうまくありません。この程度のものなら、なにもわざわざビールのためにドイツへ行くまでもないと目下、思案最中です。

出典 『デンマークのビール』

材料の良否は人の賢愚善悪にも等しいもので、腐ったようなさかな、あるいは季節はずれの脂っ気けを失ったさかななどは、魂の腐った人間に比すこともできれば、低能あるいは不良に比すべきもので、優れた教育家の苦心が払われたとしても、その成果はおぼつかないものであると同様である。

出典 『味覚馬鹿』

岐阜のような鮎どころでは、客の顔をみると、待ってましたとばかり、その鮎を塩焼き、魚田、照り焼き、煮びたし、雑炊、フライと、無闇に料理の建前を変えて、鮎びたりにさす悪風がある。これは知恵のない話であって、慎むべきことだ。ことに新鮮な鮎をフライに揚げるなどは、愚の骨頂と言うべきだ。

出典 『鮎の食い方』

わたしの舌は、あゆを世間で騒ぐほどうまいものだとは思っていないが、なんとなし高貴な魅力があってうれしいものだ。川魚のうちではあゆが有数の美味であること、それに優美な姿であることにもちろん異存はない。なんといっても四月から当分の間、あゆが王座を占める一つの理由は、この季節には、これに匹敵するような気の利いたうまい魚が他にないからであろう。

出典 『弦斎の鮎』

かつおのたたき

土佐のかつおのたたきなどは、もっとも世間的に有名なものとしてひとびとの耳に入っているが、実際はたいしたことはない。なぜかといえば、土佐という海に面した国は料理が発達していないし、贅沢を知らないひとが多いからである。このため土地のひとにはかつおのたたきが、実に天にも地にもかけがえのないほど、うまく感じられるのである。
 以上のように、何事も視野が狭いとこんなことになってしまう。それを都会の半可通がめくら判をおして、土佐のかつおのたたきとしきりに鉦(かね)や太鼓を叩きたがるから始末に困る。実際はそれほどうまくもないし、やり方はわれわれからみると、むしろ食いにくいものにしているというほかない。

出典 『鮎の名所』

台所のバケツにほうれん草を二日もつけておく人がある。ほうれん草は、台所用いけばなにあらず。

出典 『味覚馬鹿』

芸術家をバッサリ

河井寛次郎氏の製陶もとうとう世の末になってしまった。作陶家として異様に大きく名を成したのは大正八、九年頃のように思うが、その後、今日までには長い製陶生活が続いているわけである。(略)。しかるに彼の作陶は聊かも進歩していないのである。いや退歩を続けている。その原因は彼の天分たることに帰せねばならぬことは止むを得ないにしても、彼が何十年間、何の勉強もしなかったことである。甘い連中の護りを受けて安閑といい気になっていたことである。最近高島屋にて催された彼の作品を見て驚くことは、万策尽きて沈黙に等しき出鱈目を遣っていることである。視野を狭くして美の探求を怠りつづけた天罪を見て可なるものがある。

出典 『河井寛次郎近作展の感想』

この好人物をして晩年を飾らしむることは当人の欣びばかりではなく、後進に何程良い影響を遺すか知れないのである。しかし、このごろのような作品に成って来ては最早駄目である。何の取柄も無くなってしまったからである。往年の彼の人気に比しては、今日彼のファンも無きに等しき状態ではなかろうか。度重なる彼の展示会に生気の消失し尽した観があるのは、彼自身が認めて居るはずである。乾坤一擲今後に処せと言いたい所だが最早駄目である。最初から世間に誤られた人気役者の末路と見るべきである。残念ながら私は彼をここに見捨てねばならぬ。と言うても、絶望視されている作陶人は寛次郎翁一人ではない。六兵衛父子をはじめ、有名作陶家の総てである。敢えて君一人を見限っているのではない。

出典 『河井寛次郎近作展の感想』

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