”とても研究熱心な印象を受けますが、その先にどんな夢があったのでしょうか。”

『当時から、いつかノーベル賞を獲りたいという夢を持っていました。その想いは今でも変わりません。夢は永遠に持っていたほうがいいですからね。生きていればこそ出来ることが、きっとあるはずですから。だから今でも研究を続けていますし、そのためにワクチンの研究所も設立しています。エイズ、アルツハイマー、高病原性インフルエンザ等に効用のあるワクチンの開発を進めたいんです。成績はともかく、私は生来、勉強が好きなんですね(笑)。』

”夢を追う中で、失敗や挫折もありましたか。”

『勿論です。私はずいぶん若い時分に大学教授という職につきましたから、その分多くの失敗も経験しました。当時は早くトップに上り詰めたいという気持ちが強かったようですが、今になって考えると、トップに立つまでには、たくさん経験を積み、しっかりと階段を踏んでいくことも重要だと感じています。』

”若くして高いポストに就くと、様々な障壁や周囲からの反感もありますよね。”

『そうですね。ハーバード大学にいた頃から、国や財団などから億単位の助成金をもらいながら研究に没頭していましたから、周囲には私を税金泥棒だという人間もいましたし、エイズワクチン開発の際は当時の新聞などでライバルから色々叩かれました。多額のお金を研究日に当てていただくわけですから、そのためにも世の中のためになるようなワクチンを開発し、最良の成果を出さなければいけない。しかし、思ったように成果が出ないこともあります。』

”そんな時はどのように苦境に立ち向かい、乗り越えてきたのでしょうか。”

『私の兄が、いつも言ってくれた言葉があります。「自分が確信していることを思ったように貫けばいい。サイエンスの世界では時に予測と違うこともあるかもしれないが、間違ったという結果を正確に報告することも大切なこと。お前が失敗することで後輩たちが同じ失敗をせずに済むじゃないか」と、兄のその言葉は私の励みになりました。失敗にも価値がある、精一杯考え、やり通した結果なら仕方ないと考えるようにしたのです。そうした覚悟をもって研究を続けるうちに、東大・阪大や母校などから招聘のお誘いがありました。そして、研究活動は日本にいても続けていけるだろうと考え、母校に恩返しがしたいという気持ちで日本に戻り、横浜市立大学の教授として専念する決意をしたのです。』

「私も100歳まで頑張るから、おばあちゃんも一緒に長生きしよう」

”横浜市立大学では学部長及び副学長などを歴任し、約10年間を費やしています。この期間は奥田院長にとってどんな時間でしたか。”

『私が学部長を務めていた頃、当時の横浜市長が変わった際に、学部の削減案や教員を半減するという案が出されました。私のもとには多くの未来ある大学院生や教員がいましたし、もっと母校や医学の進歩に役立てる活動を続けたかった。医術に徹していれば目先の医療には役立ちますが、長い目で見たとき、必ず医学の進歩が必要になります。そういった意味においても、学部や教員の削減には反対だと抵抗しましたが、結局は大幅削減。大学はすべてにおいて縮小しました。私もそれまで培った教育・研究は頓挫せざる得なくなり残念です。私も責任を取る形で、一時は学部長・福学部長職を降りたこともあります。この10年間は苦痛な日々でした。そうした経緯があった中で、私もまだまだ研究や教授としての務めに尽力したいという気持ちがあったのですが、志半ばで大学から退きました。』