2、糾弾は利権をうむ
 同和対策実施以前の糾弾
 同和対策事業が法的根拠のもとで始まるのが一九六九年である。 それ以前の「解同」による暴力、利権、不当介入事件の特徴は、言論や表現に対する強圧・弾圧的な恫喝が中心的であった。彼らは、暴力や脅迫的な実態を粉飾するために「糾弾闘争」と称した。場合によっては「確認会」とか「学習会」ともいった。民主統一勢力の一翼であった「解同」は、特定の勢力を排除して統一を破壊しようとする朝田氏が委員長に就任したころから、差別でないものまでも差別事件とするまでに変質した。
  同和対策が始まると糾弾闘争の矛先は行政や教育、議会等に向いた。ほんの数例をあげれば、徳島県小松島市議会(一九六九年)での差別発言事件デッチあげによる糾弾事件。窓口一本化を強要するために吹田市長宅を包囲した事件(同)。「解同」を事実に基づいて批判した大阪府八尾市議斉藤氏の市議会除名事件(同)。同様の問題で大阪市議会から日本共産党議員団の除名を求める行動(同)。窓口一本化を強要した大阪府羽曳野市長監禁・強要事件(同)等々、同和行政の窓口を独占するため、全国的にこの種の「糾弾闘争」が拡大した。
 美濃部知事時代の東京も同じ出来事があった。一九七四年八月、「解同」大阪府連選出の中央執行委員を東京に送り込み、東京都の民政局を一週間にわたり不法占拠し、松橋副知事を屈服させて窓口一本化を強行させた。
 また、糾弾は児童・生徒、市民、議員の発言をとらえて学校全体、市民全体、議会全体が差別意識があると認めさせるまで継続する。現在でも継続中である。
「糾弾闘争」は少なくない行政・教育委員会、議会等に、言うことを聞かないと大変なことになる、警察も手出しできない怖い人たちという風潮と沈黙がうまれた。
 その一方、「解同」中央本部は、暴力糾弾や利権を批判する中央幹部や府県連や支部組織を次々に不当に除名処分を繰り返した。部落問題研究所主催の夏期講座を襲撃したり、中央組織を批判する地方組織の大会には暴力の限りを使って全国的に妨害を行った。
 部落解放運動を正常化するため、全国で結成が相次いだ「部落解放同盟正常化全国連絡会」(以下「正常化連」)の各都府県の結成には暴力学生などを動員して妨害したのもこの頃である。
 一九七五年二月、神奈川県連の結成のときも「解同」や暴力集団は、正常化連粉砕を叫び駅頭で妨害のビラを配布した。そればかりか“行政に対応するな”と圧力を加えた。
広島県内の同和教育推進教員、校長、教頭など二十名近い教職者が自ら命を絶つという異常な状況が続いた。このほかにも大分県、三重県等々でも教職者が命を絶っている。命を絶たないまでも教職の場を離れざるを得ない教職員は枚挙にいとまがない。広島県出身の宮沢元総理も、教職員を救えなかったことについて週刊誌で自己の無策に深い反省の念を表した。