えせ同和行為の源流(季刊報創刊号の要約)
「エセ同和行為」とは、同和問題の解決に寄与するかのように見せかけて自己の利益、利権をあさることである。
「対応団体」とは、政府の場合は部落解放同盟(以下「解同」)、全国自由同和会(以下「全自同」)、全国部落解放運動連合会(「全解連」)の三団体である。ちなみに神奈川県では「解同」県連、「全解連」県連(神解連・現在神権連)、全日本同和会(以下「同和会」)県連の三団体である。「全自同」県連には対応していない。
関東のある県では九団体に対応しているところもある。エセ同和行為を全国的にみると、「解同」、「同和会」の都府県組織や支部の幹部がおこなう場合が圧倒的多数である。「全自同」の幹部の行為も少なくない。これらの団体は、同和行政との関わりでエセ同和行為をはたらくのが特徴である。
行政が「対応団体」としていない、いわゆる同和団体の名を冠する団体のエセ同和行為は、行政に要求・強要するもののほかに企業や各種の協会、業界、個人商店や一般個人等にも物品の購入や協賛金を強要するのが特徴である。
個人のエセ同和行為は、対個人がほとんどで同和問題を利用した、税務関係やゆすり、たかりである。『税務署や役所に顔が利く』『事件を丸くおさめてやる』という手法で団体の構成員であることを隠したり、組織に属さない個人による。
1、エセ同和行為の土台
一九六五(昭和四〇)年、同和対策審議会の答申(「同対審答申」)が出された。一九六九(同四四)年に同和対策事業が本格的に開始したころから「解同」の路線に大きな転換がはじまる。「同対審答申」の評価をめぐって、「解同」中央の岡副委員長や中西事務局長等が「同対審答申」の積極面、(本格的な事業の実施など)や問題点(同和問題の解決を高度経済成長政策にゆだねるなど)の両面を指摘したのに対して、朝田委員長等は、『共産党等は「同対審答申」を毒饅頭といっている』と誹謗・中傷をはじめた。また、日本共産党員や民主団体の構成員による無理解発言を探し出しては、『日共(日本共産党とは表現しない)の差別者集団』『日共=正常化連』などとキャンペーンを張った。
一九六五年の「解同」第二〇回全国大会では、中央役員の三木や米沢の両氏、統制委員長の福井氏等を役員から排除した。三木は京都府連の副委員長であり、朝田は同委員長であった。朝田委員長派(以下、朝田派)への批判者排除の一号である。
また、大会で冒頭挨拶をした松本治一郎委員長(当時は、日本社会党参議員)は、自分の選挙運動をしないものを非難し排除することをあらわにした。
一九六六(四四)年、京都府連で少数派であった朝田派は、行政関係者や融和団体などと結託して三木府連副委員長、塚本同書記長氏らを除名した。
差別事件をでっち上げて批判者を排除
同和対策事業特別措置法が成立した一九六九年、「解同」大阪府連矢田支部支部長は「矢田事件」を引き起こした。事件は、大阪市教組の東南支部の役員選挙に立候補した人の挨拶文に、同和という文字が入っていることを理由に差別事件を仕立てた。 挨拶文の一部“教育の正常化に名をかりた管理がありませんか。越境・補習・同和など、どれをとりあげてもきわめて大事なことですが、それに名をかりて、転勤・過員問題・・職場はますます苦しくなります”明らかなように文書は差別ではない。
「矢田事件」を踏み絵(差別か否か)にして、差別でないという組織や個人を排除した。 京都、広島、岡山、山口の四県連、大阪の六支部、福岡の田川郡・市協を組織排除したのをはじめ全国組織の三分の一を排除した。中央本部の朝田委員長等の無法を批判する組織をねらい打ちにしたのである。「矢田事件」は、批判者を排除する道具にされた。裁判の結審で主犯者等の有罪が確定している。