宝塚歌劇団まで?!日本に広まる韓国式(キーセン・奴隷・娼婦の)お辞儀”コンス”って知ってる?

宝塚までコンスをし始めたとネットで話題となっています。でも上皇后陛下もやってんじゃ...と思った方。これには韓国らしい複雑な事情が...

FC2USER459588FVW さん

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また韓国の記事を見ると、たとえば→コチラでは拱手法が陰陽説と関連付けられて説明されています。
     
 たとえば上の図のように手を組む時には、男性は右手で左手の親指を握り左手で右手を覆います。女性は男性の逆で、右手が上になるように組むとされています。(凶事の場合は逆。)
 これ以外にもいくつかの拱手法についての韓国記事を読むかぎりでは、それが李氏朝鮮時代からの礼法としてふつうに認識されているようです。

 一方、小笠原流の本によると、なるほど、両手を前で組むのは悪いお辞儀とされています。

以後、数多く出てきたブログ記事では、上記の起源論に関連して小笠原流や皇室、さらには三越等のお辞儀も引き合いに出されました。
 その中で、→コチラのブログ記事(2013年9月)で「朝鮮式(韓国式)コンスのポイントは以下の2つ」であるとして①肘の左右への張り出し具合 と ②お辞儀をする際の手首の高さ をあげているのはなるほどと思いました。
 ここで공수というハングルを手がかりに韓国サイトを見てみると、たしかに多くの学校で礼儀指導としてこのコンスが教えられていることがわかります。初等学校(小学校)から高校に至るまでです。

もともとは、このお辞儀の仕方が李氏朝鮮の時代で行われていたわけではなくて、聞くところによれば、ロッテが韓国に百貨店を作った際に、お客様をお迎えするにあたって、日本における最高の立礼はどのようなものかと日本の某百貨店に問い合わせてきたことが発端のようです。
 この百貨店では、普通の両脇を締めた日本式のお辞儀を教えようとしたようなのですが、あちらさんは納得しない。
 普通ではなく、もっとも高貴なものを教えろというわけです。
 日本におけるお辞儀としては、旧華族が衣冠束帯姿でお辞儀をする際に、檜扇をおへその前で両手に持ち、お辞儀する形があります。
 で、それを教えたところ、その姿がやや変形されて広まったのがコンスといわれています。

 そしてこの話題が一気に盛り上がった(?)のが2013年夏頃。その口火を切った(?)のが→コチラの<おかしなアノお辞儀は韓国式コンス>という記事。古今東西のお辞儀についても言及する等、とても詳しく記されています。
 たとえば、コンスの起源については次のように説明されています。

ネット内の論議が続く中、2014年5月の<「朝鮮お辞儀」と「三越風お辞儀」は別物>という記事(→コチラ)では、それまでの議論内容を次のような図で整理しています。

 日本(皇室)
  ↓
 三越他 → 朝鮮へ
  ↓       ↓
 日本の    朝鮮式と混ざる
 接客業     ↓(肘を張る)
  (肘張らない)   ↓
  ↓       ↓
 今ココ ←← 侵略中(マナー教室を悪用?)

 また2014年7月に公表された動画<日本では変なお辞儀-朝鮮式(韓国)お辞儀コンス>(→コチラ)は、一見コンスのように見える皇族のお辞儀はコンスとは異なる等の内容のもので、毎日100をこえるアクセスがあるようです。

まあ結局宝塚のはコンスですね。完璧にコンスです。

韓国の差別的な文化を日本に持ち込んで、それを日本人にやらせて、陰で「ざまぁwww」と侮辱する卑劣なやり方は、「ソクトバンク」と「電通」がよく使う手です。

一刻も早く、「コンス」などという韓国で生まれた差別的な礼儀作法はやめにしましょう。

 そうしないと、知らない間に韓国の「キーセン」の人々を差別したことになるからです。

 「多文化共生」とは、互いの国同士がそれぞれ互いの文化を受け入れる”相互主義”でなくてはならないと思います。
 日本だけが「多文化共生」を強いられ、差別されるのは、絶対におかしいのです!

結局は日本人に差別的なことをさせて韓国人を楽しませる目的で普及させていると思われます。ところでキーセンって?

妓生 (きしょう、キーセン、기생) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕[1][2][3]などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。

甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。

高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万 - 3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10 - 20名、郡に30 - 40名、府に70 - 80名ほどが常時置かれていた[4]。

妓生の身分
七賤

高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級 (中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての七賤と奴婢があった[20]。林鍾国によれば、七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫俗のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった[20]。
奴婢

奴婢はさらに公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した[21]。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された[21]。従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買された[21]。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった[21]。
官卑としての妓生

朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった[11][22]。朝鮮末期には妓生、内人 (宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令 (獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた[10]。

婢女

婢女 (女性の奴婢) は筒直伊 (トンジキ) ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売却 (人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている[23]。さらに林は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている[23]。

両班の多くの家での婢女は奴僕との結婚を許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚は許されなかった[23]。林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制・身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている[20]。

房妓生・守廳妓生
また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた[11]。

どうでもいいですけど、朝鮮半島の女性の扱い方ってずっとエグイですよね...儒教?儒教のせいなのか?

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