旧「人体の不思議展」の動員数は3年6ヶ月間で、約261万8000人だった。この展覧会では養老孟司をはじめ知名度や肩書きのある共催者・後援者を多数募り、その「信用」から公共施設を会場として借用する際に、絶大な効果を発揮した。
後援には、「人体の世界」展の後援団体の日本医師会、日本医学会など一部が継続して参加し、さらに日本赤十字社や日本看護協会や地方の医師会、歯科医師会、自治体、教育委員会、大学も名を連ねた。
ところが、1998年ハーゲンスが安宅克洋を訴えるトラブルが発生する。その原因は、興行収入からハーゲンスに配分される金額をめぐるものだった。これが原因で1999年2月、「人体の不思議展」大阪展終了と同時に標本はすべてハーゲンスの下に返却されている。
ハーゲンスとのトラブルで標本が去っても、起業家たちは「人体の不思議展」が金になるので開催をあきらめなかった。そのため、彼らがハーゲンスの標本の代わりにしたのが中国製の標本である。