最盛期の1960年には狭い島内に5267人もの人々が暮らしており、東京の9倍という脅威の人口密度でした。炭鉱労働者は所得も高く、大半の人が都会にも無かったコンクリートでできた高層マンションに暮らし、カラーテレビの普及率が平均10%時代に、この島では100%の人が所有しており、島には土地も無かったため土を購入しベランダで植物栽培をしたり、主婦の人気の習い事が生け花教室であったりと、水道や風呂、トイレ、炊事場以外は文化的な生活が営まれていました。