最盛期の1960年には狭い島内に5267人もの人々が暮らしており、東京の9倍という脅威の人口密度でした。炭鉱労働者は所得も高く、大半の人が都会にも無かったコンクリートでできた高層マンションに暮らし、カラーテレビの普及率が平均10%時代に、この島では100%の人が所有しており、島には土地も無かったため土を購入しベランダで植物栽培をしたり、主婦の人気の習い事が生け花教室であったりと、水道や風呂、トイレ、炊事場以外は文化的な生活が営まれていました。
軍艦島とは?軍艦島の魅力やのアクセス方法
軍艦島と聞けば、誰でも「あそこだ」と思い浮かべることができると思います。
今回は軍艦島の魅力、アクセス方法についてまとめました。
1974年に閉山、その後35年間は島民といえども上陸できなかった。
1810年に石炭が発掘されて以来1887年に第一竪坑を深さ44m掘りましたが1890年当時の所有者(佐賀深堀領主だった鍋島孫六郎)が三菱社へ売却。以後100年余に亘って三菱の社有地となります。
陸路では、長崎半島最南端の野母崎半島は、軍艦島が最も近く臨まれ、「軍艦」の形に見える位置となっています。 軍艦島の周囲海洋は、釣り人達の間では魚の宝庫ともいわれ、五島列島と並ぶ釣り人達の憧れの地でもあるのです。
1890年の三菱社の買収により、本格的な炭鉱施設として採掘が開始。以降、閉山まで良質の石炭を排出、八幡製鉄所などの原料炭として供給されます。
『廃墟』や『ゴーストタウン』というイメージが強い軍艦島ですが、最盛期は多くの人々が暮らし、完全な都市として機能していました。
病院、学校、映画館、商店街、寺院、パチンコホール、スナックなどが存在し、島だけで何一つ不自由ない暮らしができたのです。
1974年に炭鉱が閉山し、無人島となりましたが、新たな操業主を待ち続けた軍艦島は、設備の解体がなされませんでした。
この解体の遅れが、世界でも稀に見るゴーストタウンを生み出したのです。現在も、社宅、神社、映画館、体育館、プール、桟橋、共同浴場など、当時の建物がそのまま残されています。
石炭出炭量の増加に比例するように、島の人口も増え住宅建設が盛んに行われました。1916(大正5)年に日本最初の高層鉄筋アパートである30号棟が建造されて以降、様々な施設が次々に建設され、最盛期の1960(昭和35)年には約5,300人もの人が住み、人口密度は当時の東京都区部の9倍にまで達しました。
出典 軍艦島(端島)とは?
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