人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶちまけさせて相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた(裁判では6人の殺害と1人の傷害致死)。犯罪史上稀に見る凶悪犯罪とされ、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と容疑者男女を厳しく非難した。
非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くない。
日本で起こった信じられない凶悪事件【閲覧注意】
ネットで未だに話題になる日本で起こった信じられない凶悪事件をまとめました。
◆北九州監禁殺人事件
◆名古屋アベック殺人事件
◆女子高生コンクリート詰め殺人事件
coldfiss666 さん
2002年3月6日、17歳の少女が小倉北区にあるマンションの一室から逃げ出し、祖父母宅へ助けを求めに駆け込んだ。
少女は怯えながら、
「お父さんが殺された。私もずっと監禁されていた」
と語った。少女の右足の親指は生爪が剥がれており、
「ペンチを渡されて、『自分で爪を剥げ』と言われたので剥がした」
とのことであった。
それまでの経緯などもあり、祖父は少女をともなって門司警察署へ監禁の被害届を出しに行くことになる。しかし彼女が供述した事実は監禁致傷にとどまらず、連続殺人――それも類を見ないほどの一家殲滅とも言える大量殺人であった。
連絡を受けて現れた小倉北署員がこれ以後事情聴取を行なうことになり、そうして少しずつ、この事件の全貌が語られていくことになる。
これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。
父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
高校2年の時、松永は家出少女を拾って自宅へ入れたことで退学となり、公立から私立の男子校へ転校。2年まで在学していた公立高校には、のちのち彼の『相棒』ともなる緒方純子も在籍していた。
高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
松永は契約のとれない社員に暴力をふるって虐待し、信販会社のセンター長に「接待」と称して昼間から酒を飲ませ、その姿を写真に撮って脅した。これにより信販契約の審査を甘くさせ、立替払金を着服するなどのメリットを狙ったのである。
なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。
対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
「俺、フトシちゃん。覚えてる?」
と、高校時代ほとんど面識のなかった純子に、松永は最初から馴れ馴れしかったようである。だが目的は彼女の卒業アルバムだったらしく、松永は卒業写真を見て気に入った女性たちに電話をかけまくっていたという。
そのかたわら、彼は純子に色気を出すのも忘れなかった。
「会社の業績は順調で、しかも芸能界からのスカウト話も来ている」と松永は嘘を吹きまくった。そしてすぐに彼女と関係を持つに到る。
しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。
松永はこの時、わずか23歳である。その年齢にしてこの人心掌握の上手さ、口車の巧みさは珍しいと言えよう。
彼のついた嘘は上記の通り、たわいないと言えるものばかりである。しかし彼の周囲の人物――特に緒方家の人々――はまるで糸に操られるようにして、いともたやすくその嘘に踊らされていった。
この一種のカリスマ性、マインドコントロールのたくみさ、並びに良心の乏しさや残酷さはオウム真理教の松本智津夫を髣髴とさせる。ただし松本を突き動かした、極貧と弱視ゆえのルサンチマンに匹敵するものは松永の半生には見られない。
彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の
「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」
のように見受けられる。
なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。
純子の母、静美さんはある日、松永に「純子と別れて下さい」と頼みに行った。
しかし松永はこれを言いくるめたばかりか、静美さんを言葉たくみにラブホテルに誘い出し、関係を持ってしまう。当時静美さんは44歳であった。
だがもちろん土地持ちの豪農である緒方家の娘・純子を松永が離すはずはない。松永は嫉妬妄想にかられたふりをして純子さんを殴打し、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れた。さらに肉体的暴力だけでなく、家族や親族に無理やり嫌がらせの電話をかけさせるなどして孤立させ、精神的にも追い詰めていった。
耐え切れず、純子はある日自殺未遂をはかった。しかしこれがまた松永の思うつぼであった。松永は純子に仕事を辞めさせ、両親に向かって
「婿養子などもらって緒方の家の犠牲になるのはいやです、縁を切ってくれないならまた自殺します」
と宣言することを強要した。松永はその上で、
「今となっては純子はお荷物でしかないが、私もまさか放り出すわけにもいかない。彼女が自殺しないよう面倒をみていきます」
と恩に着せた物言いをして、このときも例の如く緒方家側に『絶縁書』なる書面を作らせている。この騒動により、純子は緒方家から分籍。次女である理恵子さんが婿養子をもらうことになった。
徹底的に虐げられ、親兄弟からも孤立させられた純子は、以降なすすべもなく松永の従順な手足となって生きていくことになる。
1985年、銀行融資を受けて松永は布団販売会社を新築。この頃が(詐欺商法まがいだったとはいえ)彼のもっとも羽振りの良かった時期かもしれない。
しかし酷使と虐待により、従業員は1人逃げ2人逃げ、2年後には従業員は純子を含め2人だけとなってしまう。その上、1992年には詐欺や恐喝などを重ねた末、経営が破綻して石川県へ夜逃げする羽目となった。
収入がなくなった松永はたった1人残った従業員に、母親に金を無心することを強要。しかし約3ヶ月後、その送金も途絶え、虐待に耐えかねた従業員は逃走した。
しかし松永がこの会社経営その他詐欺行為によって得た利益は、一億八千万にものぼるという。
1993年、純子は第一子を出産。しかし相変わらず収入はなく、松永は結婚詐欺を思いついた。ターゲットにされたのは、松永がまだ羽振りが良かった頃交際していた女性だが、当時すでに結婚して子供(3つ子)もいた。
松永は彼女を口説き落とし、
「離婚して俺のところへ来い、子供のことも俺が引き受ける」
と言いくるめて、彼女に家出をさせた。そして北九州市小倉のマンションを、彼女名義で賃貸契約させている。純子のことは姉として紹介した。
彼女は貯金のすべてを松永に吸い取られ、前夫からもらう月々の養育費まで奪い取られ、親にも金の無心をさせられるなどして、合計1000万円以上を搾り取られた。なお金蔓としての価値がなくなった頃、彼女と子供のうち一人は不審死をとげている。
一連の事件発覚後、この死と松永との関連が浮かび上がったようだが、残念ながら事件性が立証されぬまま捜査は打ち切られたようである。
1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。彼は松永と同い年で、離婚して10歳の娘とともに暮らしていた。
松永は「新会社を設立するから共同出資者にならないか」と持ちかけ、連日酒の席へ連れ出して、言葉たくみに些細な軽犯罪の過去等を聞き出した。計画がうまくいくまでの生活費は、純子に実家へ電話させ、泣き落としで送金させた。この金額も1997年まで63回に分けて、1500万以上にのぼったという。
虎谷さんは松永に言われるがまま、新会社の事務所として小倉にあるマンションの一室を自分名義で賃貸契約する。
そして純子が保育士をしていた経歴を大袈裟に吹聴して、10歳の娘を預かり同居させた。この少女が、のちに冒頭で警察に駆け込むことになる少女である。
この時期から松永の虎谷さんへのマインドコントロールが始まった。
虎谷さんが酒の席で口をすべらせた軽犯罪について問い詰め、お得意の書面(『事実関係証明書』と題され、私は~の犯罪を犯した事実を証明しますと書かされたもの)を作成した。松永のやり口は、内容は言いがかり同然でもとにかく執拗で、何度も何度も繰り返し相手の弱いところを長時間にわたって突いていくというものである。これをやられると被害者は次第に消耗して、自分の言い分さえ見失ってしまうのだった。
これによって虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
虎谷さんは1995年2月、不動産会社を退社。いつの間にか新会社設立の話は消え、共同経営者どころか奴隷同然の身分になっていく。
この頃から、虎谷さんへの「通電リンチ」が始まった。食事も制限され、一日中純子による監視がなされるようになった。虎谷さんは松永に命令されるがままに消費者金融から限度額いっぱいに金を借りては渡し、親族、知人など考えられる限りのツテから借金してはそれを渡した。
しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。松永は虎谷さんの殺害を決心するかたわら、新たな金蔓を探し当てる。次は女性で、また結婚詐欺であった。
この女性も消費者金融、親族などすべての手段を使って金をぎりぎりまで搾り取られた上、「通電」を受け監禁された。だが彼女は命の危険を感じた末、アパートの二階から飛び降り、腰骨骨折や肺挫折を負いながらも何とか助かっている。
しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
2月26日、虎谷さん死亡。
松永は少女に、
「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。お気に入り詳細を見る
純子の母、静美さんはある日、松永に「純子と別れて下さい」と頼みに行った。
しかし松永はこれを言いくるめたばかりか、静美さんを言葉たくみにラブホテルに誘い出し、関係を持ってしまう。当時静美さんは44歳であった。
だがもちろん土地持ちの豪農である緒方家の娘・純子を松永が離すはずはない。松永は嫉妬妄想にかられたふりをして純子さんを殴打し、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れた。さらに肉体的暴力だけでなく、家族や親族に無理やり嫌がらせの電話をかけさせるなどして孤立させ、精神的にも追い詰めていった。
耐え切れず、純子はある日自殺未遂をはかった。しかしこれがまた松永の思うつぼであった。松永は純子に仕事を辞めさせ、両親に向かって
「婿養子などもらって緒方の家の犠牲になるのはいやです、縁を切ってくれないならまた自殺します」
と宣言することを強要した。松永はその上で、
「今となっては純子はお荷物でしかないが、私もまさか放り出すわけにもいかない。彼女が自殺しないよう面倒をみていきます」
と恩に着せた物言いをして、このときも例の如く緒方家側に『絶縁書』なる書面を作らせている。この騒動により、純子は緒方家から分籍。次女である理恵子さんが婿養子をもらうことになった。
徹底的に虐げられ、親兄弟からも孤立させられた純子は、以降なすすべもなく松永の従順な手足となって生きていくことになる。
1985年、銀行融資を受けて松永は布団販売会社を新築。この頃が(詐欺商法まがいだったとはいえ)彼のもっとも羽振りの良かった時期かもしれない。
しかし酷使と虐待により、従業員は1人逃げ2人逃げ、2年後には従業員は純子を含め2人だけとなってしまう。その上、1992年には詐欺や恐喝などを重ねた末、経営が破綻して石川県へ夜逃げする羽目となった。
収入がなくなった松永はたった1人残った従業員に、母親に金を無心することを強要。しかし約3ヶ月後、その送金も途絶え、虐待に耐えかねた従業員は逃走した。
しかし松永がこの会社経営その他詐欺行為によって得た利益は、一億八千万にものぼるという。
1993年、純子は第一子を出産。しかし相変わらず収入はなく、松永は結婚詐欺を思いついた。ターゲットにされたのは、松永がまだ羽振りが良かった頃交際していた女性だが、当時すでに結婚して子供(3つ子)もいた。
松永は彼女を口説き落とし、
「離婚して俺のところへ来い、子供のことも俺が引き受ける」
と言いくるめて、彼女に家出をさせた。そして北九州市小倉のマンションを、彼女名義で賃貸契約させている。純子のことは姉として紹介した。
彼女は貯金のすべてを松永に吸い取られ、前夫からもらう月々の養育費まで奪い取られ、親にも金の無心をさせられるなどして、合計1000万円以上を搾り取られた。なお金蔓としての価値がなくなった頃、彼女と子供のうち一人は不審死をとげている。
一連の事件発覚後、この死と松永との関連が浮かび上がったようだが、残念ながら事件性が立証されぬまま捜査は打ち切られたようである。
名古屋アベック殺人事件(なごやアベックさつじんじけん)とは、1988年2月23日から25日にかけ愛知県名古屋市緑区において理容師と理容師見習いの男女2名が犠牲となった強盗殺人・集団強姦事件。被害者2名が襲撃された場所の名前から「大高緑地公園アベック殺人事件」(おおだかりょくちこうえんアベックさつじんじけん)とも呼ばれる。非人道的で残忍な手口と身勝手な●●動機で、日本中を震撼させた。犯人グループ計6名の大半が未成年であったことから、少年法改正に多大な影響を与えた事件である。
1988年2月23日午前4時半頃、名古屋市緑区の県営大高緑地公園駐車場で、デート中で車の中にいた理容師・Xさん(19歳)と同僚の理容師見習い・Y子さん(20歳)が、車2台に分乗してきた男女に突然襲われた。
男たちは木刀や鉄パイプを持ってXさんの車を取り囲み、バールなどでフロントガラスを割り、Xさんを引っ張り出して木刀でメッタ打ちにした。
女たちははY子さんを車から引きずり下ろし、「裸になれ」と命じ、上半身裸にさせたうえで木刀で殴りつけた。
この後、男達はY子さんを藪の中へ連れこみ、集団で●●●した。その間、女は車内を荒らし、Y子さんの所持品であるぬいぐるみを奪っている。
再び、駐車場に連れ戻されたY子さんは男女らにタバコの火を全身に押しつけられた。Y子さんが許しを請うと、女は「ばかやろう。ぶりっ子するんじゃない」と殴った。
「警察に行かれると困るので、連れて行こう」
午前6時ごろになって、車の通行も目立ち始めたため、1人の男がそう提案した。XさんとY子さんを車に乗せ拉致した。
翌24日午前4時30分頃、愛知郡長久手町の公園墓地で降ろされたXさんは正座させられ、洗濯用ロープを首に巻きつけられ殺害された。男達はふざけながら、「タバコを吸い終わるまで」と綱引きのように両方から絞めたのである。
一味はXさんの遺体を車のトランクに積みこんだ後もY子さんを連れまわし、名古屋埠頭に来た。ここでY子さんが「外に出たい」と言ったので、見張られながら下車したが、海に飛び込んで死のうとしたところを掴まり、車に連れ戻された。
その夜は男のアパートに戻り、ここでも男がY子さんを強姦する。
25日午前2時ごろ、Y子さんを乗せた車は三重県大山田村に到着。男達は遺体を埋めるための穴を掘り始めた。そしてY子さんは、Xさんと同じように殺害された。
女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に、東京都足立区綾瀬で起きた猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、暴行、殺人、死体遺棄事件の通称である。事件番号は平成2う1058。
この事件は、加害者が全て少年(未成年)であったこと、犯罪内容が重大・悪質であったこと、●●期間も長期におよび、少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間も被害者を救わなかったことなどの点で社会に大きな衝撃を与えた。
数名の少年が、女子高校生を●●●後拉致、仲間の自宅2階の居室に監禁した。集団による●●●、性器にビンなどの異物挿入、裸踊りや自慰行為の強要、タバコを2本一度に吸わせる、シンナーを吸わせ、1メートル以上上から鉄棒を腹に落とす、トイレにも行かせず飲料用紙コップに排尿させその尿を飲ませる、1.6キログラムの鉄球付き棒で大腿部を数十回にわたって殴打したり、被害者の脇腹部、脚部等を多数回にわたって手拳で殴打し、全身が血だらけになり目の位置がわからなくなるほど顔を膨れ上がる程の殴る蹴るなどの行為を繰り返し、少年Bが「なんだお前でっけえ顔になったな」と笑う、足にライターのオイルをかけて火で何度もあぶる、真冬の時にベランダに裸で放置、顔面に蝋をたらす、などの苛烈な行為を41日間にわたり行った。
女子高生を監禁していた家の両親は女子高生の存在を認知しており、一度一階で一緒に食事を摂ったりした。その折、女子高生に「早く帰りなさい」と促し、一時は家を出たのだが、加害者の少年の一人が連れ戻したので、結局監禁は続いて行われた。
1989年(昭和64年)1月4日、「ギャンブルに負けた」という理由で、自力では立てなくなりほとんど動けなくなった被害者を2時間にわたって殴る蹴る、足をライターオイルで焼く、鉄の棒で殴るなどのリンチを加え放置し、その結果被害者は死亡した。翌日、被害者の死亡に気づき死体の処理に困った加害者たちは、遺体を毛布で包み旅行バックの中に入れドラム缶に入れてコンクリート詰めにして、東京都江東区若洲の埋め立て地(現在の若洲海浜公園敷地内)に遺棄した。
同年(平成元年)3月29日、別の事件で逮捕された際の取調中の加害者の供述により、被害者の遺体が発見されたことから事件が発覚した。
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