感動は人生を変えるんだよ(これを見てくれ)

悲しいときに出る涙。
実は、悲しいときだけではなくて涙は常にヒトの目から出ています。
色んな感動する話しをまとめました!

シェアよろしくお願いします。

謎のお昼寝族w さん

52 PV

幸せで笑顔ある人生

5年前に母親が亡くなった

母は俺が10歳の時離婚して兄と俺を引き取り朝~夕方までパート夕方から深夜まで飲み屋で働いていた。
兄は私立の高校行ってて授業料もいっぱいいっぱいで、もちろん家にはほとんど食べるものも無かった。
俺は給食で余った牛乳やパンなどを持って帰ってきてそれを夕ご飯にしていた。
貧乏だったけどそれが普通と思っていたから別に苦にもならなかった。

その後母親は俺が14歳のときに再婚した。
再婚相手の義理父はすごくいい人で俺や兄もすごく可愛がってくれた。

そして俺が専門学校を卒業して親父さんの仕事を手伝うようになって半年後・・。
手足が痺れると母親が・・。

医者「悪性の脳腫瘍です」

一瞬何が起こったのかわからなかった。そのまま入院になり手術の日もきまり家に親父さんと帰ってきたら・・。

親父さんが初めて号泣。つられて俺も号泣したよ。

手術は時間はわからないけど結構かかった・・。

手術は無事に終わったように見えたが医者から

「耳かきほどの腫瘍しかとれなかった、場所が悪すぎた」・・と。

その後放射線治療や抗がん治療などをして退院した。

その後は後遺症に若干悩まされていたようだけど元気を取り戻したかのように思えた。
その間兄貴の結婚、初孫と色々あったけど時間はゆっくりと母の病気を進行させていた。


7年後の夏の暑い日

家に帰ってくると暖房がついていた・・。外の気温は30度を超える猛暑なのになんでと感じたら母親が脱水症状で倒れていた。
病院に着くと手がもう利かない状態で握力もなくなっていた・・。

病気に再発にてっきり治っていたと思った俺は愕然とした。

もう手の施しようもない状態で病院のたらいまわしだったけどどうにか入院できる近くの病院があった。

日に日にやせていき・・。
だんだん俺の顔も誰かわからなくなり・・。
空中を指でさしたりとなってきた。

そして入院して三ヵ月後危篤の電話を受けて急いで病院に向かった。

兄は遠方のため夕方に帰ってきた。
その晩はどうにか持ちこたえて、次の朝兄貴達家族と一緒に病院に行ったとき母の容態が急に変わった。

そしてそのまま他界しました。

ほんの5分遅れていたら最後に立ち会えなかったのだけど母は多分待っていてくれたのだと思う。

それを思ってさらに号泣した。

折角兄弟二人とも社会人になり今から自分の為に過ごせる時間ができたときの矢先の出来事でした。


その後俺も無事結婚して家庭をもてたのだが、去年の春ぐらいから頭痛と吐き気が止まらなくり、もしやと思い病院にいってMRIとってもらったけど異常なし・・。
その後もずっと続きなんかやる気が出ないと言うことで病院に行ったら

鬱と診断された・・。で体のほかも調べると言うことで検査したら
肺がん・・・・www

結構きているらしいがまだいろんな意味で自宅療養中。
結婚して4年目だが子供がいないことが幸いした。

嫁さんよまだ若いから早く今のうちにイイ人探しといてくれよ。

俺は残せるものが少ないけど・・。しかしごめんよ。こんなやつと結婚しちまって

俺はしっかりした家庭と家族と幸せを築けなかったけど、
次は幸せで笑顔ある人生にしてほしい。ありがとう。

人生最大の悔い

高校の頃とにかくバイトと遊びではしゃぎまくってた。
無免で中型乗って馬鹿だからマッポに捕まったりしてお母さんに迷惑かけまくった。

バイトもキャバクラと他に掛け持ちして学校も公立の普通科で超多忙で通学費だけは自分で払ってた。

そんな中、高2~3までダイエットと忙しさで拒食症になった。
すごいガリガリになって普通の生活が辛くて眠くてイライラがずっとあった。
でもバイトも学校もしっかり行っていたが、毎朝おかんが作るお弁当を全く食べずに家においていったままにした。

ほとんど食事をとらず友達にも家族にも相当心配かけてた時期。
家族との仲に溝ができて、会話がほとんどなかった。

しかしやっぱり人間の本能。
いずれ食欲は出て来て普通の生活が出来るようになり、今ではその反動がきてるw
拒食症の症状も軽くなった頃の高校卒業間際、学校最後のお弁当がある登校日。

久々の朝の会話
「お弁当忘れてるよ。」

その日学校で丁寧に包まれたお弁当ばこを開けた。

母からの手紙が。

あなたがダイエットをする頃から母はお弁当を作らなくなり、
悲しいような…楽チンだったような…
一時期は本当にどうなるのか不安で仕方ありませんでした。
たくさん心配かけることをしてくれたあなたですが体だけは健康にね。
いずれあなたにも子供ができて、文句を言いながらお弁当を作る様子を思い浮かべると笑っちゃう。
でもあなたはママの娘。何があっても大丈夫。
これからも頑張ろうね。

学校で泣いた。友達に自慢しまくったw

泣きながら手紙入ってるよーって。
そのお弁当には私の大好きな母の手作りだし巻き卵焼きが入ってました。
うちのおかんは本当に料理がうますぎて、ピザも生地から手作りで、味噌とかも家で作ってます。絶品。

今私は19歳。就職して1人暮らししています。
おかんのお弁当、なんでなんでもっと欲張って食べなかったんだろう。
人生最大の悔い。
今更だけどおかんのお弁当ってどれだけあったかくておいしかったのか思い知らされました。あの愛情に勝てるものはこの世にないでしょう…
おかんみたいなおかんになることが私の夢です

皆さんからの感動する話し
画像・動画の要望お待ちしてます!!

「ガキの使いでの一コマ」

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『もし浜田さんが明日死ぬとしたら

 松本さんは浜田さんに何をしてあげますか?』

でした。


まっちゃん

『あのね、何をしてあげるというかね…。

 そんなことはありえないんですよ。』

浜ちゃん

『どういう事ですか?』

まっちゃん

『あなたが死ぬ前に僕が死にます。』

浜ちゃん

『なんでやねん』

まっちゃん

『お前がいない人生なんて考えられへん!』

で浜ちゃんが照れながらつっこむって感じでした。



今度は浜ちゃん視点で。

ガキが始まった頃のフリートークで

まっちゃんが何を言っても

客が笑う状態が続いていたので、

浜ちゃんが

『これではアカン、松本のためにならん』

と思い、まっちゃんがホンマに面白いことを言わない限り

ちゃんとしたツッコミを入れないことにしました。


ライブでも笑っている客に

『お前らホンマに分かって笑ってんのか?』

とキレた事もあるそうです。


浜ちゃんが言うにはガキだけに限らず

どの番組でも舞台で2人だけ笑っていて

客がポカーンとしてるときが一番嬉しいみたいです。


もう1つ、浜ちゃん視点から。

ごっつでショートコントをやった時、

まっちゃんが高いところから落ちて

気絶した事があったのですが、

その時浜ちゃんは違うスタジオにいたらしいんです。


まっちゃんが気絶した事を聞いた浜ちゃんは

自分の特番を収録中なのに、

出演しているタレントさんや俳優さんに

事情説明して収録中止して

まっちゃんが寝ている医務室まで駆けつけて泣きながら

『あほ!お前が死んだらどうすんねん。

 お前はオレが死んでも笑いに変えられる力はあるやろけど

 オレはお前が死んだら泣く事しか出来ひんねんぞ!』

と出演者もいる中、大声で言ったそうです。


その時まっちゃんは実は起きていて

『あほか、オレもお前じゃなかったら笑いに出来るけど、

 お前だけは死んだら泣くしか出来ひんわ』

と言ったそうです。

最後にまっちゃん視点から。

『浜田が人気出て騒がれるのも腹が立つけど

 浜田の悪口を聞くともっと腹が立つ』

『自分のボケで客が誰1人笑って無くても、

 目の前で相方さえ笑っていれば大丈夫だと思える』


無人島に一つだけ持っていくとしたら何を持っていきますか?

『浜田かなぁ…』




ここまで家族同等にお互いの事を

思っているコンビはいないのではないでしょうか。


長い間、常に相方の事を思い続けてきたからこそ

思わず出てきた言葉なのでしょうね。


本当に素敵なコンビですよね^^

「安室奈美恵:左腕のタトゥー」

幼少期からアクターズスクールに
入学したかったけど月謝が高く親に
通いたいと言えなかった。

親思いですよね。

でも才能を校長に見込まれて
特待生として入学。

左腕のタトゥーは殺害された母親への
感謝と永遠の愛を刻んでいます。
安易にいれたものではないです。

息子さんとの時間を大切にしたいからと
19時以降の仕事はオファーがあっても
断っています。

ライブにかける思い。

プロのダンサーさんでさえかなりきついし
動きが細かくついていくのに精一杯と
インタビューで答えてます。

自分でもきついと答えてますが
MCが苦手で自分がファンの方へ
出来るのは感謝を言葉ではなくて
歌って踊って表現し伝える事だと
言ってました。

口パクはないです、MCはなくても
ライブへ行けば十分に伝わってきます。

専属のダンサーやバンドをつけないのは
常に進化したいからだそうです。

ダンサーのオーディションは
かなりの倍率で
受かるのに10年かかった
ダンサーもいます。

東日本大震災もそうですが
新潟中越沖地震・スマトラ島地震の時も
事務所を通さずマスコミに内緒で義援金を
送りました。


子供達のためだそうです。

売れてもそのままでいる事。

一時期は時代は終わったとか言われましたが
それでも自分の歌いたい歌を歌い続けている
安室ちゃんは すごいです。



母親としての姿、歌手としての姿、
どちらも非常に尊敬できますよね。

義援金や歌で私たちを助けてくれている分、
これからもずっと応援していきたいと思います。


昭和二十年三月十日、東京が米軍による大空襲に遭い、
たった二時間のうちに十万人が亡くなりました。

早いものであれから六十年。
当時十一歳だった私も七十歳になり、
これ以上齢を重ねては、戦火の恐ろしさと
平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。

私は戦火を逃れるため、昭和十九年に
静岡県沼津市のおばの家に一人で縁故疎開しました。 

出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けると
わくわくしていましたが、母は涙をぼろぼろこぼしながら、
お守りを首からかけてくれると、

「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」

と何度も、何度も言うのです。
母があまりにも悲しい顔をしているので、
だんだんと心細くなってきました。

「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」

と呟くと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、

「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」

と何度も何度も繰り返しました。


それが最後の言葉となりました。
空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、
すぐ上の兄・喜三郎だけでした。

兄は家族五人が亡くなったことを伝えるため
沼津までやってきましたが、
きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、
汽車にぶら下がるようにして東京からきてくれたのでしょう。
その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていました。


戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、
二人もおばに世話になるのは悪いと、
兄はあてもなく東京へ戻り、
私は引き続き沼津のおばの家に残りました。


そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。
どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、
ある冬の日、瓶に水を張っていないという理由で、
おばにものすごく叱られました。


それまでは

「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」と思っていましたが、

その日はひどく悲しくなって家を飛び出しました。


向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。
焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、
目を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。


「どうしてみんな私を一人にしたの?もうこのままでいいや……」


その時、一人の復員兵が通りかかりました。
私の前で立ち止まり、鞄の中から一本のさつまいもを
取り出したかと思うと、半分に割って差し出しました。


「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」



物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を
分けてくれることなど考えられないことです。
私は夢中になって頬張りましたが、
ふとお礼を言うのを忘れたと気づき、振り返りましたが、
もうそこには誰もいませんでした。  


いまにして思うと、あれは神様だったのかもしれません。
神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。
さつまいもを食べて元気になった私は、
走っておばの家に戻りましたが、
しばらくするとその家にもいられなくなりました。


伝手で転々とする中で、つらいことはたくさんありました。
でも拗ねたり、挫けたり、横道に逸れるようなことはしませんでした。


それは両親に愛された記憶があるからです。


悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、
こんなことで泣いたら、
別れ際に「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた母ちゃんが悲しむ。
それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。


平和な時代に生きるいまの人たちには、
子どもをいっぱいいっぱい愛してやってほしいと思います。
親に心底愛された子どもは、
苦境に遭っても絶対に乗り越えていけます。


そしてもう二度と戦争によって
私のような悲しい思いを、
地球上のすべての子どもたちにさせられません。
それが戦後六十年の節目に願うことであり、
私のすべての活動の原動力になっています。


海老名香葉子(『致知』2005年8月号「致知随想)

性格は顔に出る
生活は体型に出る
本音は仕草に出る
感情は声に出る
センスは服に出る
美意識は爪に出る
清潔感は髪に出る
落ち着きのなさは足に出る

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