Q.誰が書いた?
「森本右近太夫という武士がアンコールワットに行きました、そこで落書きをいたしました。時代は1632年、ちょうど3代将軍家光の頃ですね。」
こちらが江戸時代の武士・森本右近太夫の落書きである。
「仏教の悟りを開くことを志し、数千里もの海を渡り、この世の中を清めるため、ここに四体の仏像を奉納します。」
森本は苦労を重ね、仏教の悟りを開くためアンコールワットを訪れていた。
石澤教授
「森本はカンボジアのアンコールワットを、インドの仏教の聖地と間違えて訪れているんですね。」
【補足トリビア】
①アンコールワットは12世紀前半、アンコール王朝の王・スールヤヴァルマン2世がヒンドゥー教の最も権威ある寺院として建設し、1992年に世界文化遺産に登録された。
②落書きには「寛永9年(1632)の正月に初めてここに日本の肥州(熊本県)の住人である森本右近太夫がきた。仏教の悟りを開くことを志し、数千里もの海を渡り、この世の中を清めるため、ここに4体の仏像を奉納します。」と書いていた。
③森本がアンコールワットを訪れているころ、日本では鎖国の方針が打ち出され、海外渡航は禁止、外国からの帰国も極刑となった。森本は急いで枳殻し、「森本」の姓を捨て京都郊外の山崎に身を隠さなければならなかった。
【高橋語録】
この前、とある公衆トイレで「高橋克実はカツラ 20へぇ」っていう落書きがありました。
当時の日本人参拝客の墨書はアンコール・ワットの各所に残されているが、なかでも1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」という墨書は広く知られている。
右近太夫は幕府が「第1次鎖国令」を発令する直前に帰国している。鎖国は厳しく、在外日本人の帰国も禁止されたため、カンボジア帰りの右近太夫は肩身が狭かったのだろう。
右近太夫は故郷を離れ、名前を変え、経歴も隠して、父、義太夫の出身地である京都の山崎でひっそりと暮らしたという。
アンコール・ワットの入り口近くに位置し、東西南北の回廊が交わる「十字回廊」の柱に「落書き」はある。 書かれた後に墨で黒く塗りつぶされているため読みづらいが、日付は寛永9(1632)年正月。書き手は、森本右近太夫一房(もりもとうこんだゆうかずふさ)という日本人だ。
【補足トリビア】
①アンコールワットは12世紀前半、アンコール王朝の王・スールヤヴァルマン2世がヒンドゥー教の最も権威ある寺院として建設し、1992年に世界文化遺産に登録された。
②落書きには「寛永9年(1632)の正月に初めてここに日本の肥州(熊本県)の住人である森本右近太夫がきた。仏教の悟りを開くことを志し、数千里もの海を渡り、この世の中を清めるため、ここに4体の仏像を奉納します。」と書いていた。
③森本がアンコールワットを訪れているころ、日本では鎖国の方針が打ち出され、海外渡航は禁止、外国からの帰国も極刑となった。森本は急いで枳殻し、「森本」の姓を捨て京都郊外の山崎に身を隠さなければならなかった。
【高橋語録】
この前、とある公衆トイレで「高橋克実はカツラ 20へぇ」っていう落書きがありました。
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