【トリビアまとめ】アンコールワットには江戸時代の武士の落書きがある

昔懐かしの「トリビアの泉」を再検証!

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当時の放送より

世界文化遺産アンコールワットといえば、12世紀前半カンボジアのアンコール王朝が建設したヒンドゥー教の寺院であるが、

アンコール遺跡国際調査団の団長、上智大学の石澤教授はこう語る。

Q.アンコールワットには江戸時代の武士の落書きがある?


Q.誰が書いた?

「森本右近太夫という武士がアンコールワットに行きました、そこで落書きをいたしました。時代は1632年、ちょうど3代将軍家光の頃ですね。」

ヒンドゥー教の神・ビシュヌ神が祭られるアンコールワット。

その入り口をくぐり、中心部へとまっすぐに続く回廊から、人目につかない脇道を入っていくと・・・


こちらが江戸時代の武士・森本右近太夫の落書きである。

そこにはこう書かれていた。

「寛永九年の正月に初めてここに日本の肥州の住人である森本右近太夫がきた。」

「仏教の悟りを開くことを志し、数千里もの海を渡り、この世の中を清めるため、ここに四体の仏像を奉納します。」

森本は苦労を重ね、仏教の悟りを開くためアンコールワットを訪れていた。


石澤教授
「森本はカンボジアのアンコールワットを、インドの仏教の聖地と間違えて訪れているんですね。」

【補足トリビア】
①アンコールワットは12世紀前半、アンコール王朝の王・スールヤヴァルマン2世がヒンドゥー教の最も権威ある寺院として建設し、1992年に世界文化遺産に登録された。
②落書きには「寛永9年(1632)の正月に初めてここに日本の肥州(熊本県)の住人である森本右近太夫がきた。仏教の悟りを開くことを志し、数千里もの海を渡り、この世の中を清めるため、ここに4体の仏像を奉納します。」と書いていた。
③森本がアンコールワットを訪れているころ、日本では鎖国の方針が打ち出され、海外渡航は禁止、外国からの帰国も極刑となった。森本は急いで枳殻し、「森本」の姓を捨て京都郊外の山崎に身を隠さなければならなかった。

【高橋語録】
この前、とある公衆トイレで「高橋克実はカツラ 20へぇ」っていう落書きがありました。

再検証しました

カンボジアの世界遺産アンコール・ワットでは、なんと江戸時代の武士による落書きが発見されているのだ。

右近太夫は幕府が「第1次鎖国令」を発令する直前に帰国している。鎖国は厳しく、在外日本人の帰国も禁止されたため、カンボジア帰りの右近太夫は肩身が狭かったのだろう。

右近太夫は故郷を離れ、名前を変え、経歴も隠して、父、義太夫の出身地である京都の山崎でひっそりと暮らしたという。

アンコール・ワットの入り口近くに位置し、東西南北の回廊が交わる「十字回廊」の柱に「落書き」はある。 書かれた後に墨で黒く塗りつぶされているため読みづらいが、日付は寛永9(1632)年正月。書き手は、森本右近太夫一房(もりもとうこんだゆうかずふさ)という日本人だ。

【補足トリビア】
①アンコールワットは12世紀前半、アンコール王朝の王・スールヤヴァルマン2世がヒンドゥー教の最も権威ある寺院として建設し、1992年に世界文化遺産に登録された。
②落書きには「寛永9年(1632)の正月に初めてここに日本の肥州(熊本県)の住人である森本右近太夫がきた。仏教の悟りを開くことを志し、数千里もの海を渡り、この世の中を清めるため、ここに4体の仏像を奉納します。」と書いていた。
③森本がアンコールワットを訪れているころ、日本では鎖国の方針が打ち出され、海外渡航は禁止、外国からの帰国も極刑となった。森本は急いで枳殻し、「森本」の姓を捨て京都郊外の山崎に身を隠さなければならなかった。

【高橋語録】
この前、とある公衆トイレで「高橋克実はカツラ 20へぇ」っていう落書きがありました。

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