警視庁公安部は31日、東京五輪の開会式場近くで警備中だった機動隊員に対する公務執行妨害容疑で逮捕した職業不詳、山本進容疑者(40)=福岡市博多区=が、過激派「中核派」の活動家と判明したとして、東京都江戸川区にある関係先の同派活動拠点「前進社」を家宅捜索した。
午前9時ごろから、捜査員や機動隊員約100人が、次々と前進社の建物内に入った。
事件は23日夜、東京都新宿区の国立競技場近くの路上で発生。中核派活動家ら約70人が大会開催への抗議活動中、山本容疑者が機動隊員の右手首をつかんだとして現行犯逮捕された。
出典 https://www.sankei.com/article/20210731-FNBS●●BTHZPHHBNGEWV6K77Y4E/?outputType=theme_tokyo2020
立憲枝野代表の不正献金事件と立憲民主党の支持母体の一つJR総連、革マル派と呼ばれるテロ集団についてのまとめです。
革命的共産主義者同盟全国委員会(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいぜんこくいいんかい、通称:中核派)は、革共同系の日本の新左翼党派の一つ。当初は本多派、前進派などと呼ばれていた。2007年の関西派(革共同再建協議会)との対立とその離脱以降は、中央派、党中央、安田派などとも呼ばれる。
「反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命」[1]を掲げるテロ組織。公然拠点は前進社。機関紙は「前進」、機関誌は「共産主義者」。学生組織はマル学同中核派。警察白書では「極左暴力集団」[2]、マスコミは「過激派」と呼んでいる[
1960年代、権力に対する街頭武装闘争、大学闘争などで新左翼最大の規模・勢力を持つに至った。1966年の三回大会で「帝国主義の根底的動揺の開始」を表明。その後の1974-75年の世界同時不況・高度成長の終焉をもって資本主義の歴史的命脈は尽きたとする。これを元に情勢認識を「革命情勢は成熟している」と規定し続け、その情勢認識から急進的な路線を打出し、その時々で大学闘争、街頭闘争、三里塚や部落解放などの諸闘争、物理的な党派闘争(いわゆる「内ゲバ」、特に革マル派との内ゲバを「戦争」と規定)など、多数のテロ事件、ゲリラ闘争を行ってきた。
冷戦終結後、1991年5月の「5月テーゼ」以降は、武装闘争路線によって疲弊した党組織の立て直しを図り、労働運動路線へと転換。自派の労働運動を展開しつつ、労使協調路線の連合・全労連を「体制内労働運動」と規定して批判している。
2006年頃より「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンに表現される旧来の路線から、動労千葉を軸とした「階級的労働運動路線」にさらに転換した。それへの反発などから2007年頃に関西派など、幾つかの分裂と離脱を引き起こした。「動労千葉派」を自称するいわゆる「中央派」は、現在「労働運動の力で革命やろう」をスローガンにしている。
全共闘運動当時のような、大衆的な拡大・勢いを失った中核派は、その後、1980年代に入って、ゲリラ闘争にその活路を見出し、数々のテロリズムを引き起こした。
同派の非公然組織「革命軍(秘密部隊)」は、これまでに、運輸省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)幹部職員宅などに対する爆破・放火・放火未遂ゲリラ事件、脅迫事件を数十回も引き起こした。また、同派が敵とみなした人々の住所等の個人情報や弱みを調べ上げ、「共有・拡散」と称して不特定多数の人々に対し流出させて無用の紛議を煽り、事業を続けることができないようにしたり、精神的なプレッシャーをかけて、中核派の要求を呑ませるという嫌がらせ問題を起こした。また、自由民主党本部(自由民主党本部放火襲撃事件)や空港施設などを狙った火炎瓶や火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件、警察署襲撃事件、警察官居宅への放火ゲリラ事件、国電同時多発ゲリラ事件など、150件を超える事件を引き起こした。
1985年(昭和60年)頃からは、圧力釜爆弾・時限発火装置の製造や、飛距離が数キロメートルに及ぶ迫撃弾・ロケット砲も使用するようになった。1985年(昭和60年)10月20日には、革労協などと共に10.20成田現地闘争で機動隊と大規模に衝突し、1986年の第12回先進国首脳会議では、新東京国際空港と迎賓館に向けて、迫撃弾と飛翔弾(ロケット弾)を発射する事件、放火事件、皇居の爆破未遂事件を起こした
これらの中核派による「ゲリラ闘争」に関連して、複数のゲリラ事件で一般人の巻き添えと犠牲者を出している。1975年(昭和50年)9月4日、中核派活動家が横須賀緑荘アジトで爆弾を製造しているところ、誤って爆発させ、同アパート住人2名が死亡(中核派活動家も3名死亡)した(横須賀緑荘誤爆事件)。
1983年(昭和58年)6月7日には、千葉県四街道市の成田空港関連の航空燃料用パイプライン輸送敷設工事現場の飯場に放火して、労働者2名を焼死させている(東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件)。1984年(昭和59年)10月1日には、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火(成田用水工事事業者連続放火事件)。社長宅のほかに成田空港問題とは無関係の近接した住宅2棟も全焼させた。これらの「ゲリラ闘争」における一般人の巻き添えについて、中核派は、未だ一つとして被害者遺族らに謝罪も賠償もしていない。
対立党派で宿敵である革マル派との内ゲバも、1980年代に入ると両派ともに組織が「内ゲバ戦争」によって疲弊化したことで徐々に小康化していったが、国鉄分割民営化を巡る過程で、革マル派同盟員と目されていた国鉄動力車労働組合や真国鉄労働組合(真国労)、JR総連の活動家を襲撃するなどした。また、かつて革マル派が行ってきたような大学構内から他党派やノンセクトの活動家を暴力的に排除する「党派による恐怖支配」を、中核派も法政大学・京都大学を始め、各地の大学で強めることになったと語る当時の活動家も存在する。
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