1896年に始まった近代オリンピック。その前身となったのは古代ギリシアで行われていた「オリンピア祭典競技」、いわゆる古代オリンピックです。
古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされています。現代のオリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典ですが、古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事でした。
オリンピックが開催されるのは4年に1度。その理由にはいくつかの説があります。
最も有力なのは、古代ギリシア人が太陰歴を使っていたからという説です。現代、一般的に使われている太陽暦の8年が、太陰暦の8年と3カ月にほぼ等しいことから、8年という周期は古代ギリシア人にとって重要な意味をもっていたのです。暦を司るのは神官であり8年ごとに祭典が開かれるようになり、後に半分の4年周期となりました。太陰暦では49カ月と50カ月間隔を交互にして開催されていたようです。
紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配されます。古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていませんでしたが、ローマが支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり、次第に変容を遂げていきます。さらに392年、ローマのテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、オリンピア信仰を維持することは困難となりました。最後の古代オリンピックが開催されたのは393年の第293回オリンピック競技大祭。戦乱を乗り越え、1169年間も受け継がれた伝統は、終焉の時を迎えたのです。
近代オリンピックの創設者。
古代オリンピックの火が途絶えて1500年の時が流れた1892年。フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵は、ソルボンヌ講堂で行った「ルネッサンス・オリンピック」と題する講演の中で、初めてオリンピック復興の構想を明らかにしました。その理想は次第に世界中の国々の賛同を得ることに成功し、1896年、記念すべき第1回大会がオリンピックのふるさとであるギリシアのアテネで開催されたのです。
第1回大会の出場選手は男子のみ
開会式はアテネのパンアテナイ競技場に5万人の観衆を集めて行われました。参加したのは欧米先進国の14ヶ国。選手は男子のみで280人。第1回の近代オリンピックは、古代オリンピックと同じように女子禁制の大会だったのです。
日本がオリンピックに初参加
1909年5月、クーベルタンからの呼びかけによって嘉納治五郎(当時、東京高等師範学校=のちの筑波大学=校長だった)がアジアで初めてのIOC委員に就任。ストックホルム大会への参加に向けて、1911年7月10日に大日本体育協会を設立しました。
第一次世界大戦で第6回ベルリン大会は開催不可能
第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパは戦火に包まれました。そんな状況の中、ベルリン大会の開催は不可能になったのです。
日本人初のメダリストはテニスの熊谷一弥
2回目のオリンピック参加となった日本。陸上競技や水泳などではまだ世界との力の差があったのですが、テニスに出場した熊谷一弥(写真)と柏尾誠一郎の活躍が注目されました。シングルでは熊谷が銀メダルを。またダブルスでも熊谷と柏尾のペアで銀メダルに輝いたのです。
冬季大会が試験的に独立
1922年のIOC総会で、かねてから議論されていた冬季大会の独立について結論が出されました。それは「1924年に試験的に独立した大会を開いてみて、その結果によって、冬の大会をどうするか確定する」というものです。したがって、この大会の正式名称は「第8回オリンピアードの一部として、IOCが最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でシャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会」というややこしいものでした。
アドルフ・ヒトラーがベルリン・オリンピック大会組織委員会総裁に就任。
オリンピック史上初めての聖火リレーが行われる。
レニ・リーフェンシュタール女史が監督したこの大会の記録映画が1938年のベニス映画祭で金賞を受賞。
陸上競技・三段跳びで、田島直人が優勝し日本人がこの種目3連覇を果たす。原田正夫が2位に入り、日本人が1、2位を独占。
第二次世界大戦の責任を問われ、日本とドイツは招待されなかった。
ベルリン大会で感動を呼んだ聖火リレーが踏襲された。こののち、1951年のIOC総会で聖火リレーは『オリンピック憲章』に正式に加えられた。
判定機器がさらに進歩。写真判定器や跳躍距離測定器が登場した。
ソビエトが初参加。大量の選手団を送り込み、参加選手数が前回大会より871人も増えた。
日本が16年ぶりにオリンピックに参加する。レスリングのフリースタイル・バンタム級で石井庄八が唯一の金メダルを獲得。
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