江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1715年)に直心影流の長沼国郷が面・小手を製作し、竹刀打ち込み稽古法を確立した。宝暦年間(1751年 - 1763年)に中西派一刀流の中西子武が防具を鉄面・具足式に改良した。防具の発達にともない袋竹刀より強固な四つ割り竹刀が作られるようになった。
江戸時代後期から末期には、竹刀打ち中心の道場が興隆し、流派を超えて試合が行われた。幕末の江戸三大道場といわれる鏡新明智流士学館、北辰一刀流玄武館、神道無念流練兵館や、幕府の設立した講武所が有名である。北辰一刀流の創始者千葉周作は剣術の技を六十八手に分類し、講武所頭取並の男谷信友は竹刀の全長を3尺8寸と定めた。
当時の竹刀試合はあくまで真剣を使った戦いに勝つための訓練の手段として行なわれ、競技を目的にはしていなかった。審判規則や競技大会はなく、10本勝負が通例とされていた