カティンの森の虐殺事件
Катынский расстрел

ww2中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で多数のポーランド軍将校、
国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部
(NKVD)によって銃殺された事件。




1 ポーランド人捕虜問題
捕虜23万人 民間数万の計25万人内 20万人が行方不明になった!


1939年9月、ポーランドはナチス・ドイツとソ連の両国によって
挟撃され、全土は占領下に置かれた。

ソ連軍はこの時のポーランド軍捕虜の数を将官12人、
将校8,000人をふくむ230,672人と発表した

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む23万人の軍人と
数万の民間人の安否を何度もソ連側に問い合わせた

2 事件の発覚
最初にかぎつけたのはドイツ (クンカクンカ Gefunden!!

スモレンスクの近郊グニェズドヴォでは1万人以上のポーランド人
捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。
この情報を耳にしたドイツ軍はスモレンスクを占領後の43年2月
 カティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体を発見
再調査後 さらにポーランド人の遺体が7つの穴に幾層にも渡って
埋められていることが発覚した。
ドイツ ゲルスドルフ参謀は「カティン虐殺事件」として報告書を作成

3 西側連合国の対応
ww2中なので完全にスルー This is Justice!

イギリスはドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、
カティン虐殺事件ついて気づいていた。
またポーランド亡命政府大使オーウェン・オマレーは、
事件がソ連によるものであると結論した覚書を提出したが、
英ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった

一方 米ルーズベルト大統領は1944年に前ブルガリア大使
ジョージ・アール少佐に事件の情報収集を命じた

アールは虐殺がソ連の仕業であるとする報告書を作成したが
ルーズベルトはこの結論を拒絶、アール報告は隠蔽された
当然 アールは報告書公表を求めたが、ルーズベルトはそれを
禁止した上に アールを解任し、アメリカ領サモア島に左遷した

4 ついに自白(ゲロ)しました

1990年にはNKVDの●●であることを示す
機密文書が発見され、ゴルバチョフは従来の主張を
継続できないと認め、4月タス通信はカティンの森事件に対する
NKVDの関与を公表し、ソ連政府は「スターリンの犯罪の一つである
カティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した

しかし 現在に至ってもソ連およびロシアの捜査によって責任を
追及されたり、訴追されたものは一人も存在しない