革マル派は、1960年代の街頭闘争や全共闘運動などから距離を置き、成田空港建設反対闘争からも排除され、他の新左翼系過激派集団の多くと敵対関係にあった。それは革マル派が東大紛争で、警視庁機動隊が安田講堂に突入する前日、「兵力温存」を理由に戦線を離脱したため、その後残って機動隊と対決していた他の新左翼諸派から「第二民青[7]」「日和見主義」などの批判を受けることになったためである。そして1970年代以降は、中核派等との内ゲバ(過激派同士で対立するグループのメンバーを襲撃して殺傷する行為)事件を繰り返し、双方に多数の死傷者を出してきたが、近年は沈静化している。
2001年には、アメリカ9・11同時多発テロについて「歴史的行為」(「革マル派」機関紙「解放」2001年9月24日号)などと称揚していたが、近年は、少なくとも表面上は暴力性・党派性を隠し、あくまでも組織拡大に重点を置き、基幹産業の労働組合や学生運動への浸透を図る戦術を採っている。最近は、街頭での集会・デモなどの際にも、「革マル派」というセクト名は隠して活動していることも多い。