尺八 都山流 分裂記録

尺八の最大人口を誇るのは、中尾都山によって創始された、都山流(とざんりゅう)である。
だが昭和50年前後に、熾烈なお家騒動および権力闘争を経て3派に分裂し、今も確執は消えてはいない。
その経過を、当時の一次資料を交えて概説する。
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尺八の最大人口を誇るのは、中尾都山によって創始された、都山流(とざんりゅう)である。
だが昭和50年前後に、熾烈なお家騒動および権力闘争を経て3派に分裂し、今も確執は消えてはいない。

その事実は広く知られているものの、詳細はオブラートに包まれている。
今も京都の舟岡山のふもと、たおやかな光景の場所に都山流本部は所在しているが、その落ち着いたたたずまいからは想像できない過酷な争いが繰り広げられ、一部はまだ続いている。

その経過を、当時の一次資料を交えて概説する。

分裂したのちの3派

明治9年10月に枚方の油問屋に次男として生まれた流祖、中尾都山(本名:琳三)には子の居る本妻が居た。

本妻が亡くなったあと、レンという芸者上がりの妾ができた。同棲はしたものの本来は入籍しない事にしていたが、稀一という子供が出来た事から入籍した。これが後の悲劇の数々の、不吉な発端である。この稀一が流祖亡き後に二代目宗家を継承した。

レンを流祖に世話したのが京都の遠藤眠山(みんざん)であり、試験等で必ず使用する「楽理の手引き」を著している。その弟子が田中森山で多くの弟子を養成している。

レンは後述のように複雑な経緯を経て三代目宗家となる。

なお四代目宗家(本名:中尾正幸)は流祖本妻の子の直系、流祖の孫に当たる。

分裂後に、三代目「都山流尺八楽会」宗家となる

分裂騒動の際に暗躍した高平艟山(たかひら どうざん)は当時、都山流尺八楽会(がっかい)の常務理事の役職にあった。アクの強さは有名で、金・権力・性のいずれにも驚くべき欲の強さを示していた。

「あくなき金欲」

すさまじい金欲の持ち主であり、師範試験問題の漏洩による裏金は日常茶飯事であった。当時は多い時で50人程度の受験者が准師範・師範試験ともに居た。それが各月全国持ち回りで試験をしていた。問題漏洩の見返りに少なからぬ賄賂を得ていたのである。

漏洩の仕方はあからさまで遠慮のないものであった。聞き取り試験では、奏者の前に事務員が楽譜を置き、受験者は吹奏された曲名を回答する。
ある四国での師範試験では、事務員である飯岡が聞き違えて「若菜(わかな)」という独奏曲の楽譜を置いた。出題者としては二重奏曲であり全く異なる曲である「若葉(わかば)」のつもりであったところを、である。奏者は当然二名座っていたが、一人が「若菜(わかな)」を独奏し、一人は演奏せず終了まで座ったままでいた。
しかし、受験者の少なからぬ割合が「若葉(わかば)」と回答した。すなわちその受験者は問題漏洩をうけており、しかも回答した曲が独奏か二重奏であるかすら知らなかったのである。

ちなみに飯岡は稀一と同じ小学校で仲が良かった。京都北大路で日産の自動車販売会社に勤めていたが、稀一の頼みで退職し、都山流の事務員として勤めることになった。

裏金システムの組織化

高平艟山は、師範試験の前日に、「講習会」と称して有料の解説を行った。体よく形を整えた問題漏洩の場である。その参加費は大半、高平が私的流用していた。それを京都支部長であった山下舟山(しゅうざん)がとがめると、「お前は分かっとらん」と高平に一喝され、そのまま沙汰やみとなってしまったという逸話もある。

高平は他流派との交流を禁じ、専制政治を引いた割には、求められると嬉しげに祝辞を書いている。
島原帆山が琴古流の尺八を持ち笛としていた事を、攻撃の言いがかりとしていた。

「野村 正峰」と高平 艟山の金銭トラブル

都山流は以前は口伝であった尺八曲を、楽譜化したことにより爆発的に広まった。楽譜は京都・姉小路通りの都山流事務所で販売していた。印刷所は以前は東京であったが、高平艟山が前川合名会社に変更させている。

名古屋の筝曲の家元に野村正峰(せいほう)が居た。都山流から楽譜の出版を希望したが、高平艟山が裏金を要求した。野村正峰は怒り、拒否した。その結果野村は自前で正絃社から出版し今に至る。そのため取り上げられる機会は多いが、現在でも多くの野村曲は都山流公刊譜としては入手できない。

ちなみに現代を代表する尺八奏者、野村峰山(ほうざん)は、野村正峰の養子である。世話をしたのが、製管師(尺八製作者)の河野玉水(現河野玉水の祖父)である。

https://ameblo.jp/sheigensha/image-12290789735-13980415073.html
より引用

「竹林軒 正(ちくりんけん せい)」

権力の点では、本稿の主題である分裂騒動のあと、高平艟山は理事長として君臨し、年2000万円の報酬をほしいままにしていた。

また都山流の音楽上の最高位は「竹林軒(ちくりんけん)」と呼ばれる位であり、長らく流祖に直接指導を受けた高弟にしか許されなかった。しかし高平艟山は「竹林軒 正」なる職位を創作し、自らがそれに収まるべく画策した。宗家ですら竹林軒であるから、宗家より上位にあるということである。
これはさすがに問題視され実現することはなかった。

高平艟山は釣り針屋の息子である。店自体は叔父に売却している。先妻と離婚し、人間国宝・菊原初子の弟子である菊庭(きくば)和子と再婚した。尺八の師匠は角山伍山である。のちに初代・星田一山(いちざん・流祖直門)にも師事している。ちなみに初代・星田一山の養子である二代・星田一山は、当時演奏においてのちに人間国宝となる島原帆山(はんざん・後述)と双璧をなしていた。

高平は自称職業演奏家であり、菊原初子との「残月」の合奏レコードを都山流から発売している。拙い出来栄えであり、菊原初子がいやいや演奏しているのが誰の耳にも聞き取れる演奏である。しかし高平が鉄面皮なのは、売り上げを上げるために後に人間国宝となる山本邦山の「八重衣」の歴史的名演を、このレコードの裏面に入れたことである。聞き比べると目も当てられない。売り上げのためには何でもする男であった。

後述のように中尾レンと共に大のマージャン好きであった。息子が自衛隊に勤めていた舞鶴の高平鉄山である。

二代目宗家 中尾都山(稀一)

稀一(きいち)はいわば過保護に育てられ、またプレッシャーから尺八から逃げて回っていた。武蔵野音楽大学に進学したが中退している。ただそこは多額の寄付をしたのか詳らかではないが、「卒業」したことになっている。

武蔵野音大でオーボエを学んでいた時に出会った声楽家が、妻となる児島和代(かずよ)である。美人で週刊新潮のグラビアに載った事もある。ただし宗家をはじめとする親族周囲は、広島の杉原泰山が世話をした島根・出雲からの別の女性を妻として推していた。和代を上回る美人である。結果的に稀一は一度はこの縁談を受け入れ、結婚式までしている。

しかしながら、稀一は伊丹空港に来て新婚旅行に出発するタラップを上がる直前になって、この結婚を拒否した。どうしても行かないと言い出して聞かなかった。和代の事が忘れられなかったのである。そうして縁談は破談になった。

この場には中尾レン(稀一の母)、後述の人間国宝・島原帆山(はんざん)、英(はなふさ)という事務員が居た。島原帆山も杉原を通して縁談を進めており、大いに憮然とした表情で帰っていった。

なおこれには後日談がある。破談となった女性は頼りがない状態となって、京都の稀一宅から大阪・豊中に単身転居した。その転居先マンションは高平が世話し、荷物は高平がレンタカーで運んだ。
驚くべきことに、島根にかえるに帰れなくなった彼女に高平艟山は付け込んで、男女の関係としている。

二代目宗家・稀一のアルコール中毒と肝硬変

稀一は周囲のプレッシャーから逃げてアルコールばかり飲んでいた。初代・星田一山(いちざん)が大阪から出張稽古に来ていたが、会えないことが多かった。後述の富井舜山(しゅんざん)に「失礼ではないか」咎められると、「先生も千鳥とか小さい曲でいいから一曲吹けたらそれでいい、と言ったはるではないですが」などと言い訳をしていた。

「ダルマ」と俗称されるサントリーのウイスキー(サントリーオールド700ml)を愛飲した。いわばわがままに育てられたボンボンがそのまま大人になれずに酒に走ったのである。そのため20歳台にして肝硬変となってしまった。

優しい顔立ちの好男子であったが、後述の文書にもある通り、一時期から吹き出物で顔が埋め尽くされ、乳房が女性のように膨らみ始め、かすり傷でも出血が止まらなくなり出した。周囲は酒が悪いとわかっているので止めにはいり、家から酒瓶を隠していたが、金持ちで顔が通っていたことから稀一は酒屋に行ってはウイスキーをツケでいくらでも買うことが出来た。焼け石に水である。

ダルマは一日1本空けていた。これでは、治る見込みは全くなかった。

実力者 富井 舜山

京都市長も勤めた眼科医の富井舜山(しゅんざん・本名 清)は初代中尾都山の高弟・藤井隆山(りゅうざん)の弟子であった。彼は2代目を稀一が継承したときに大きく貢献し、以降絶大な発言権を持つようになった。

前述のように昭和31年の初代の逝去後、継承争いが本妻の嫡子:治正(はるまさ)と、妾のレンの子:稀一の間で起こった。
稀一を推したのが岸信介の親友である森田鸞山(らんざん)、島原帆山、富井舜山であった。治正がわについたのが、初代・池田静山(せいざん)、永田彰山であり、強度の争いとなった。

結局稀一が継承したが、富井舜山は敗者側の池田静山にも配慮をし、子である二代・池田静山を引き立てている。二代・池田静山自身が「富井先生は政治家ですなあ」との言葉で懐述している。

この天賦の政治的バランス感覚と卓抜した統率力から、富井は以降都山流の実力者として君臨した。筆頭常務理事も長く務めている。本物の自民党政治家としても京都市長として実力を発揮している。ちなみに彼にとっては京都市議会に比べれば都山流理事会は子供だましのようなものであったようである。京都市議会の休憩時間、共産党議員からの突き上げの激しさにトイレで隠れて泣いたと富井は周囲に語っている。